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国立1女バス越境について

 投稿者:府中市民  投稿日:2009年11月23日(月)15時18分19秒
  中学部活越境のよい点もあるでしょう。
ただ高校や大学でなく、相手が小学生や中学生だということ。
義務教育で子供に教えることは学校も親もうそをつかない。人を大切にする。なにごともがんばること。少なくともずっといっしょにやってきた友達と競い敗れるならば親も子も納得するでしょう。それが毎年他市から地域の親も子もしらない有望選手が入ってきたらそれはまた違う話でしょう。それでも、学校、地域の親や子供が納得しているならよいのかも。
 

<ある無神論者にあてた手紙>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月15日(日)23時01分0秒
  旧約、新約ともに、開祖の教えを正確に伝えることには失敗しているといえるでしょう。コーランにしても同じことです。その時々の世情により、教えは伝える者によって歪められてきたからです。
しかし、ハートで神をとらえる者にとって、新約の神にせよ、旧約の神にせよ、あるいはイスラムの神にせよ、そこに普遍的な慈愛の神を見出すのは難しいことではありません。聖賢たちの教えが混乱しているように見えるのは、彼らが混乱しているからではなく、その教えを受け止める側の混乱によるのではないでしょうか。
聖者の教えは、もとを正せばいずれも口伝であり、伝える者たちの意識をくぐる段階で変容を余儀なくされてしまうのです。ゆえに、頭でこれを理解しようとすれば、衆生の混迷を見出すことになるだけです。

因果応報も同じ事で、理性の営み、知力の働きで因果律を解き明かすことは単純にいって不可能なのです。既に申し上げた通り、それは知性に限界があるからです。
しかしながら、人には知性のみならず感性があり、この働きに負う高次の認識を悟性と呼ぶなら、悟性によってのみ、因果律をたどることが可能となります。さすればそれを観察者の錯覚であるだとか思い込みであるだとかいう結論には達し得ません。ただ、理性に限界があるのと同じように、悟性にもまた限界があります。当然、過ちもあり得るでしょう。ゆえに、真理を追究する者には何より謙虚であることが必要とされるのではないでしょうか。

神が無限の愛、慈愛そのものであるというなら、何ゆえ衆生には悪徳と暴力がはびこり、善男善女がもだえ苦しまねばならないのかと人は問います。何もせぬ神は無慈悲ではないかと。しかし、己が苦しみを奥深くたどれば、そこにあるものこそ、錯覚に過ぎないのではないでしょうか。諸々の苦しみ、悲しみは、我々が有限の存在であることに由来します。有限なものを失うことで苦しみや悲しみが生まれるからです。しかし、他ならぬ我々自身が神の化身であり、無限存在たる己の素性を忘れてこの有限の世界に戯れる神であると悟るならば、その苦しみ、悲しみを退けることができるでしょう。

無限にして唯一の神が“存在する”ためには、それを認識する客体として神を想う有限存在が不可欠なのです。苦しみ、悲しみはこの有限なものを失うという感覚の延長にある幻に過ぎません。不安もまた同じです。ゆえに、目に見える肉体を失う死によって無限存在に回帰することが救いとなるのです。不生不滅、死なば皆仏とはそういうことです。
かつてイエスが自ら十字架を背負い、目に見える命を犠牲にしてまで人々に示してみせたものの本質がそこにあるのではないでしょうか。彼の教えの骨子は、人の本質がその霊性にあり、無限の存在であるということに他ならないと私は思います。
神がどこにあるかと問われるなら、私は各々のハートを指すのみです。そこにある慈悲の心、慈愛の心が神であると。
 

<無限存在と輪廻転生>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月15日(日)22時59分18秒
  10カラットのダイヤも100カラットのダイヤも、炭素の塊であることに変わりがないのと同じように、苦しみ、悲しみにどれほど高値を付けてみたところで、それらが有限なものを失うところから派生した幻であることに変わりはない。なぜ幻であるかといえば、それは我々の本質が輪廻転生を繰り返す無限存在であるからだ。

我々は苦しみ、悲しみ、憎しみ、喜び、その他諸々、感情の全てを味わいつくすために幾度と無く生まれ出でていることだろう。それが輪廻転生の思想である。ならば、既にその味を十分に知りえた人生は選択されることがないに違いあるまい。多くの人が本能的に殺人を忌避するのはその故である。殺しの味、そしてその結果としての殺される味を既に知り尽くしているからだ。実際、ニケーア公会議以前に伝わるイエスの教えには、因果応報、輪廻転生を肯定する思想が含まれていた可能性を示唆する報告もあるという。

我われが本質的に無限であるというならば、人類にどれほど冷酷で残虐な歴史があったとしても、それは神の栄光を汚すものではあり得ない。なぜならそれは押しなべて人の獣性がもたらした帰結に過ぎないからだ。ゆえに、それをもって神の慈愛を否定することなどできはしない。神の御心が我儘なのではなく、それは人の気まぐれ、身勝手の表出に過ぎないからだ。この世界のあらゆるドラマには、神の恩寵が奇蹟となって煌く瞬間を除き、ただ原因と結果があるのみだと私は思う。

そもそも、人とは、“獣性と神性とを併せ持ち、神にいたる途上にある何者か”なのだから、慈悲の心を著しく欠いた獣のごとき輩が存在しても何ら不思議なことではないのである。我々自身が獣の言説に惑わされることなく、ただ神への道を粛々と歩めばそれで良いのではないだろうか。
殺戮の歴史は、人の獣性がつむぎだした結果に過ぎない。しかしながら、何もしてくれぬ神に呪詛のコトバをはき捨てる人々は後を絶たない。けれども、そうした発想は単純に神と己を分かつ分離感に由来しているに過ぎず、己がハートの外側に神を見出そうとすればこそ、神の不在を確認せざるを得なくなるというだけの話なのだ。

したがって、人類の歴史において、神には何の責任もありはしないことだろう。同じように、霊的存在としての我々にもまた、何の責任もありはしない。有限の世界における諸々のドラマは神が己の何たるかを知るための遊戯に過ぎないからだ。霊的無限存在として、我々は完璧に平等であり、自由である。我々は己の何たるかを知る途上にある神そのものであるという意味だ。さすれば霊的存在として、我々はあるがままで良いといえるだろう。慈愛の神など信じぬ、輪廻も因果も信じぬというのであれば、それはそれで良いのである。

何を信じて生きるかは、己がどのように人生を納得させるのかという単純な問題に還元されることだろう。その獣性をむき出しにせざるを得なかったキリスト教徒たちもそうだが、己が信じるところに従って生きればそれで良いのだ。そして、そのような人々がつむぐ歴史を見て、後世の人々は何が間違っていたのかを悟るだけの話ではないだろうか。人は誰しも己の信じたものにふさわしい幻をこの有限の世界で味わう定めにあることだろう。

制限がないとき、人は怠惰とならざるを得ない生き物である。ゆえに、我々は限りある時間の中で生きるのではないだろうか。過去世の記憶がないのはそのゆえである。あるのはただ漠然とした生きる傾向、いわば魂の習慣で、それをカルマと呼ぶ人もいる。実人生においてはこのカルマと向き合い、粛々とその一つひとつを清算、克服して行く営みこそが人生であると私は納得している。人生とは味わいに他ならぬと。
 

<神の恩寵と因果応報>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月15日(日)22時57分16秒
  多くの善男善女が、これほど多くの苦しむ人々、非業の死を遂げる無念の人々を前にしながら、どうして神は何もしてくれないのかと無邪気に尋ねる。

しかしながら、現実の世に起こるあらゆる出来事に偶然はないと私は思う。全てに原因があり、そしてその原因にふさわしい結果が待ち受けるのではないだろうか。それが因果応報である。因果応報の存在もまた神の存在と同じく、それを感じるしか認識の手立てがない。しかし、あると実感する者にとってはまぎれもない真実なのである。

因果応報は、この世界の壮大なドラマを創り出すのに欠かせぬ法則であり、これを安易にくつがえすならば、世界はその存在意義を失ってしまうことになりはしないだろうか。神が何もしないようにみえるのはその故である。
我々の目の前で起こるあらゆる事象は、常に原因を伴う。そして、その結果もまた、それを受け取るにふさわしい人が、完璧なタイミングで受け取ることになるのだと私は思う。

しかし、そうした因果応報の法則を覆すことができるのも、やはり神をおいて他にはないことだろう。それは神に帰依する者の純粋な祈りによって行われる奇蹟である。人の手によって最善が尽くされた上で聖なる祈りが捧げられたならば、神の恩寵により、願いは聞き届けられることだろう。そして、その成就は我々の霊的進化に深く関わってくるに違いないのである。
 

<神はハートにあり>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月13日(金)08時21分31秒
  神という呼び名を目にすると、これを「理解」するために多くの人はあれこれと既存の知識をたどろうとする。つまり、己の外側に神を見出そうとするわけだ。けれども、ハートのスイッチを切った学者や思想家、あるいはその真似をする者たちがいかに頭をひねってみたところで神にたどり着けるはずもなく、往々にして“神は人間が方便としてつくり出した概念に過ぎないもの”という結論に達してしまう。こうなると、ほとんどの探究者は伝えられる概念の相違点ばかりが気になって、神の普遍性に思いが及ばなくなってしまうようだ。

一方、今ある秩序、全宇宙の存在原因として、あってあるもの、我々一人ひとりの意識の奥深くに内在し、理性の営みの外にある普遍の無限存在として神をとらえれば、神とは、ハートで感じ、味わうものであるということになる。
もし、そうであるならば、宗教を掘り下げる行為もそうだが、文献に神をたどるのは不毛であるということになるだろう。探す場所を誤っていたのでは神にたどり着けるわけがないからだ。

実のところ、ヨーガや密教に伝わる特殊なテクニックを用いて瞑想し、意識の深い領域に達すると、一時的にせよ人は神の意識との一体化を経験できるようだ。そのような経験を持つ人間にとって、神は人間のつくりだした概念であるだとか方便であるだとかの理屈はまるで意味をなさなくなってしまう。神は我々一人ひとりの内側にあるのであって、それを己の外側に見出そうとするのは、己にかけた眼鏡を探す愚挙に等しいというわけだ。

往々にして、人間は困るまでは神を必要としない生き物である。ゆえに、神はその子らを己に近づけさせるために困らせるのではないだろうか。あるいは、人が神に近づくために困った状況を自ら演出するともいえるだろう。人が己の存在意義について深く省察するのは困ったときをおいて他にはないからだ。それは、人が神にいたるためのきっかけに過ぎまい。我々の人生は、我々自身の手によって遠い過去にグランドデザインを終えているという意味である。

人間はいつも矛盾を抱えて苦しむ生き物ではないだろうか。だから、“獣と神との間にある何者か”なのである。あるべき姿と今ある現実との間にある矛盾を忘れぬ限り、その矛盾に苦悩する限り、人は獣に落ちることから免れ得ることだろう。
 

<神性と獣性>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月13日(金)08時17分18秒
  死にいたる老人が自宅で息を引き取ることがほとんどなくなってしまった昨今、現代日本人の多くが死を身近に目撃することがなくなってしまった。このため、半ば盲目的に死を恐れる人々が巷にはあふれかえっているように見える。
しかし、死よりも恐ろしい、むごたらしい生などいくらでもあるというのに、死ばかりを恐れるのはナンセンスだ。
死は神の与え給うた救済の一つだと私は思う。目に見える命の営みにばかりとらわれていると、命より大切なものの存在を見失ってしまうのではないだろうか。命より大切なもの、それは人としての誇りである。

では人の誇りとは何であろうか。それを慈悲の心を持つことだと考える人もいる。しかしながら、その誇りを捨ててしまった人間も少なからず存在する一方、興味深いことに慈悲の心を持つ獣も存在する。西洋では悪役が定番の狼だが、その生態に詳しい学者の観察によると、この慈悲心ゆえに、狼は自らの餓死をかえりみず捕らえた獲物をあえて逃がしてしまうケースがあるという。そのことを昔の日本人が知っていたかどうかは定かでないが、日本における狼の名の由来は大神なのだという。実際、狼には異種族である人間の子供を育てた記録まであるくらいだ。

慈悲の心とは人の心ではなく、神の御心だと私は思う。そして、人はその神性と獣性とを併せ持つ矛盾した存在であり、あらゆる生き物の中で、もっとも神に近いというだけではないだろうか。インドの古い哲学によれば、人は輪廻転生を繰り返して神にいたる途上にある何者かであり、神と一体となったとき、その営みを終える、つまりは、生まれてくることがなくなるという。今生を日本人として生きる私の来世がアメリカ人になるか、はたまた中国人になるかは神のみぞ知るだが、今後日本が核武装を選択すれば、次は北欧かカナダあたりに生まれることだろう。

とはいえ、こうした慈悲の心は組織対組織、種族対種族には働きにくいのかもしれない。しかし、神の御意志が我々に何を求めているかは明白ではないだろうか。
人間界、自然界の営みに目をやると、利己的に過ぎた組織や種族には早くに滅亡が待ち受ける一方、利己と利他を統べる組織なり種族なりには長きにわたって繁栄があるように見える。つまり、神は我々に神に近づくことをこそ、求めているということだ。

ゆえに、もし、このまま人間社会がその獣性のままに利己的であり続けるならば、早晩、核兵器によって自滅を余儀なくされるのではないだろうか。
反対に、その獣性を統べ、慈悲心に基づいて核を持たぬ勇気を示すならば、人類は新しい歴史を築くことができるだろう。それが神の計画であり、御意志であると私には強く感じられる次第である。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月12日(木)19時02分24秒
  後づけでいろいろとくっつけるのは明解さを欠いてしまいます。

生命の本質が利己的でそれの発現を獣性とよび、利他的な慈悲の心を神性とよぶのは
SHOさんの考え方なので、それはそれでいいでしょう。

しかし、以下の表現をした場合、それは人間だけという表現になります。

人間はそのような利己的性質を抱えながら、異なるものに対して慈愛の念を抱く稀有な性質を有しています。つまり、人とは生命の本質たる利己的性質、小生はこれを獣性と呼んでいますが、その獣性と、他者を慈しむ利他的性質、神のごとき性質としての神性とを併せ持つ矛盾した存在であるといえるのではないでしょうか。少なくとも私はそのようにとらえています。

 なによりも稀有な性質としている神性がどの動物にも一般的に見られるのなら、まったく
もって稀有ではありません。その上で人間とは…ということではなく、動物とは…というこ
とになってしまいます。

 SHOさんは明解に考えるのではなく、信じたいように考えるために自分で広げた風呂敷が
どのような柄なのかまで失念しがちです。


 社会のあり方が先に個人の思いが後なんです。
 (貨幣がない仕組みなのに貨幣が欲しいなんて個人は出てこないでしょ。)
 個人の思いをどれほど加算しようが、累積しようが、社会のあり方は変わりません。
 (百匹目の猿は大法螺です。)
 社会を変えるのは、発明=技術の変化だけです。物の次元で変革しなければ心の次元
 ではまったく変化しません。
 

<追伸>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月12日(木)10時00分44秒
  くまげん様

“謙虚さに欠ける”などと失礼なことを申し上げましたが、これは自戒でもあります(笑)ので、悪しからずご了承ください。
人は誰しも相手の中に己自身の偽らざる姿を見出してしまうのではないでしょうか。
 

<老婆心より一言>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月12日(木)08時55分7秒
  くまげん様

生命の本質が利己的であるとは申しましたが、人間以外は全て利己的であるなどと申し上げた覚えもございません。人間であっても、慈悲の念を捨て去るのを躊躇しない輩もおれば、獣であっても慈悲の念を有するものがあるからです。
たとえば、西洋では悪役が定番の狼ですが、その生態に詳しい学者の観察によると、この慈悲心ゆえに、狼は自らの餓死をかえりみず捕らえた獲物をあえて逃がしてしまうケースがあるといいます。そのことを昔の日本人が知っていたかどうかは定かでありませんが、日本における狼の名の由来は大神なのです。実際、狼には異種族である人間の子供を育てた記録まであるくらいです。ゆえに、慈悲心とは神の御心であるといえるのでしょう。

厳しい言い方で申し訳ありませんが、小生の論を貴兄のものさしで計りとろうとしても徒労に終わるだけです。なぜなら貴兄には相手をわからせようとする情熱はあっても、相手をわかろうとする謙虚さに欠けるからです。
人間観の違いは宗教の違いでもありません。それは人生をいかにして納得させるのかという信仰の違いです。そして、そうした信仰の違いは往々にして議論を空転させてしまうのです。老婆心からそのことをご忠告申し上げ、これにてお返事は最後とさせていただきます。
 

狼が羊を食べるのは

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月12日(木)06時55分32秒
  羊のために必要だ。

 なぜなら、羊が増えすぎると食べるべき草がなくなってしまって、全滅してしまう。

じゃあ、狼がべらぼうに増えてしまうのではないか?

 狼など捕食動物たちは…どうしたことか…というより、そうであったからこそ生き延びたのであろうが…出産数が少ない。もしも、多ければ、必要な羊の数も増え、羊の増加率を越えたとき、狼も羊も全滅する。

 出産数が多い個体はこのようにして淘汰された結果、バランスのよい種だけが生き延びた
と考えるとわかりやすい。

 狼が羊を食べるのは<利他行為>である。
 

利己を獣性といいかえても

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月12日(木)06時49分28秒
  利己が天然自然なもの、利他が人間特性と区分けるだけで、なんら人間中心主義を
脱するところか、人間こそ万物の中心だと宣言するようなものです。

ありは利他しませんか?蜂は利他しませんか?かばの背中に止まる鷺は利他しませんか?

たったこれだけでSHOさんの根拠は崩れてしまいます。
利他もまた一般的に自然界で見られる行動なのです。

人間だけといいたい生物学者たちがこれもまた利己的な行動であるといいました。
ところが、そうすると、やはり、人間もまた利他ではなく利己な行動としてそれを
している。(利得が存在する。)ことを証明してくれる生物学者が出てきました。

SHOさんがそのように考えるのはそのような情報に触れていないからです。
持っている情報の中で自分が考えている人間観を作り上げた結果にすぎません。
それが普遍的なものでも一般的なものでもないのです。


…つまり、、、大勢が賛成してくれない。もし、大勢が賛成するとしたら、
まさに衆愚なんです。

衆愚というものは与えられた情報だけを鵜呑みにして判断しようとする
姿勢のことにほかなりません。
民主主義を情報の次元でとらえれば、データーを発信し、情報を作り出すのも
また、庶民でなければならないということです。

人間観が違うから話が噛み合わないのではありません。
(じゃあ、言語が違うから話し合いはできないということにもなります。
 宗教が違うから話し合いはできませんか?)

SHOさんが自分の考えを崩したくないから話し合えないのです。
 

<獣性と神性との間にあるのが人>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月11日(水)13時31分46秒
  くまげん様

>日本からみれば北朝鮮は他だからこれを助けなければならない!
>…ほら、何を馬鹿なことを!と思ったでしょ。…それ利己主義ですよ。

申し訳ありませんが、小生は貴兄のごとく馬鹿なことだとは思いません。ゆえに、適切な例示とはいえません。
そもそも、人間が利己主義なのではありません。生命が本質的に利己主義なだけです。しかし、人間はそのような利己的性質を抱えながら、異なるものに対して慈愛の念を抱く稀有な性質を有しています。つまり、人とは生命の本質たる利己的性質、小生はこれを獣性と呼んでいますが、その獣性と、他者を慈しむ利他的性質、神のごとき性質としての神性とを併せ持つ矛盾した存在であるといえるのではないでしょうか。少なくとも私はそのようにとらえています。ゆえに、人間が本来利己的というのは、偏ったものの見方に過ぎません。
そのような見方をするからこそ、

>市場によって能力に応じて分配するという社会のあり方が先です。

などという見解に達するのでありましょう。
つまるところ、貴兄と小生とでは、人という存在をいかにとらえるかに大きな隔たりがあったということです。
かみあわぬ意見交換の原因が明らかになったので、これよりはお返事を控えさせていただくことになるやも知れませんが、悪しからずご了承ください。
ありがとうございました。
 

利己主義が単純に人間の基本的な

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月11日(水)04時37分30秒
  あり方だからでしょ。それ個々人の思いとは別だと考えればよろしい。

じゃあ、なぜ今まで利己主義はよくないものだと言われてきたのか?

利己主義の対義語は利他主義です。じゃあこの他とは何でしょうか?
日本からみれば北朝鮮は他だからこれを助けなければならない!

…ほら、何を馬鹿なことを!と思ったでしょ。…それ利己主義ですよ。
だから、本来は利己主義なんです。それをある範囲を設定して利(己=仲間)主義
にして運営してきたにすぎません。

仲間を規定した上での利己主義が、仲間を規定せずの利己主義に移行しただけです。

じゃあ、それがひとりひとりの思いの連鎖が原因なのでしょうか?
いいえ違います。

市場によって能力に応じて分配するという社会のあり方が先です。これが下部構造で
そんな利己主義が可能になったのです。なぜなら、その方が新たな仲間を形成しうる
からです。(その第一段階が国家=国民という仲間だったんですよ。市場なしには
国家なんていう仲間も存在しえないのです。)
 

<個々の思いは連鎖する>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月10日(火)08時45分57秒
  くまげん様
相手がわかるかわからぬかが問題ではありません。貴兄が相手の主張をわかろうとなさるか否かが問題です。

>端的にいえば、自分が決断できるのは自分のことだけ。そして、その決断が社会に反映するためには他者が必要。
>その他者がまた別の他者に媒介してくれなければ、自分の決断は社会に影響を与えない。
って当たり前のこと

おっしゃる通りです。ゆえに、文化は誰か個人の意思が作り出すものでは有り得ません。しかし、個人の意思は他者を介在し、その共感と共鳴するところによって有機的に連鎖していくのではないでしょうか。それが総体となって文化と呼ばれるのだと小生は思います。
ゆえに、下部構造と呼ばれるものの変容が上部構造と呼ばれるものをも含めた全体構造を変容せしめるのではないでしょうか。
良くも悪くも、人の思いは共鳴し、連鎖するのです。たとえば、現代にあっては利己主義が蔓延し、これが当たり前という風潮が社会に形成されつつあります。そこには々の利己主義化の連鎖があるわけです。あいつが自分勝手にうまくやるなら、俺だってという具合です。ならば、そのような社会を変えていくのに必要なのは、利己的なる個々を制限すべく法規制を強化するばかりではなく、その反対性質たる慈愛の連鎖を作り出すことではないでしょうか。

もとより、民主主義を全否定するつもりなどありません。しかし、個々がその欺瞞を自覚せぬ限り、これがより望ましい形に変容することもないと私は思うだけです。
 

民主主義が同じプロトコルを共有する

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 9日(月)07時01分34秒
  個々人によってしかなしえません。

 個々人の意思や意識の足し算とやらをどうやって行うつもりですか?

この一点だけでそれを下部とすることが不可能であることが…わかりませんか?わからない
でしょうね。

 つまり、個々人の行為や表現が他者を媒介して他の他者に伝わるという仕組みなしには
おっしゃられる上部構造はなしえません。その上で個々人の行為や表現は他者に向かって
行われなければそもそも意味がないということも指摘できます。

 つまり、他者を意識しているの点でこれらはおっしゃられる上部構造が先にあるからこ
そ成り立っているということが形式的に証明できます。ですから、これは上部構造を支える
下部構造ではありません。

 考え方を変えればしっくりきます。一つの意思決定がされる過程での一つのパートが個人
であり、社会であると考えることです。

 …たぶん、私の言っていることは理解されないかもしれません。端的にいえば、自分が決断できるのは自分のことだけ。そして、その決断が社会に反映するためには他者が必要。
その他者がまた別の他者に媒介してくれなければ、自分の決断は社会に影響を与えない。
って当たり前のことなんですけど…。

 人間は自己満足な行為しか基本していません。
 

<文化とは個々の意識の集合体>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 6日(金)08時50分51秒
  くまげん様

>下部構造の意識というものはありません。意識は上部構造=文化に属するものです。
>マルクスが言ったのは体と心の関係でたとえると、心が変われば行動が変わるのではない。まず、行動を変えれば心も変わるのだ。ということです。

これは単純な誤解に過ぎないことでしょう。小生のいう下部構造とは、民衆個々の意識です。一方、上部構造とは文化や文明、社会システムを指します。上部構造たる文化は下部構造たる個々の意識が集合して織り成す産物であるという解釈によって立つので、下部構造に意識が含まれぬという貴兄のご指摘は、マルクスの言うところがどうであれ、小生の論に関する限り適切ではありません。
もとより、小生自身は“心が変わることで行動が変わる、目に見えるシステムもよりよく生かされる”と考える者です。
ゆえに、個々の意識の足かせとなる民主主義に疑義を呈することには意義があるのです。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 5日(木)22時07分36秒
  現実にはあり得ないのは、経済的自由と社会的自由が同時に達成されるようなあり方と
能力に応じて富が分配されずに、存在において富が分配される平等です。

 横並びがお嫌いのようですが、人並みにとしたとたんに保障されるべきになるのでは
ありませんか?

 下部構造の意識というものはありません。意識は上部構造=文化に属するものです。
 マルクスが言ったのは体と心の関係でたとえると、心が変われば行動が変わるのではない。
 まず、行動を変えれば心も変わるのだ。ということです。

 下部構造は生産関係のことを普通は指します。これは流通の関係(物の流れ)情報の関係、
資本の関係の交通網です。(端的にいえば分業です。)人の暮らし方が変わるから、人の考え方
が変わるのだ。という考えです。

二世議員が通ってしまうのは、その方が都合がいい人々がいるからで、結局はその方が全体の利益の
ためになっているともいえます。(政治家同志のつながりがもともとあるわけでしょ。
いきなり、ぺーぺーのよくわからない(しっかりしてるかもしれないが)議員を送り込んでも仕事を
しないでもどってくるわけでしょ。

タレント議員や知事にしても仕事ができなければ、政治力を認められたりはしないでしょ。
一回目はご祝儀ということがあっても連続当選することはそう簡単ではありませんよ。

(私自身はそのような既得権益をより堅固にするような世襲には大反対です。しかし、そう
考える者がいまや少数なのもよく知っています。地元に何かをもってこれるだけのものは
結局<世襲>の積み上げしかないという判断は現実的なものなのでしょう。)
 

<下部構造の変容>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 5日(木)21時58分41秒
  くまげん様

こちらこそ、何度もお返事ありがとうございます。

>代案なき批判はためにする議論と同じではないでしょうか?

確かに、小生はシステムの代案を示しているわけではありません。しかし、それを示すばかりが社会を変えるための提案ではないことでしょう。
そもそも、システムの代案を示すということは、社会をその上部構造から下部構造へと変革していこうとする営みに他なりませんが、それをなさずとも、その下部構造の意識から変えて、その先にある上部構造の変容を促すという方法もあるわけです。
そして、それが教育というものではないでしょうか。
現実にはあり得ない自由や平等の概念を基に構築された今日の社会システム。そしてこれに疑問を抱かせようとしないサヨク教育こそが、社会全体をスポイルしていると小生は愚考します。ゆえに、それらの一つひとつを批判していくことに意義があると私は思います。なぜなら、それによって社会の下部構造が変容をはじめるきっかけとなるからです。

>選ばれる立場に立つという選択枝がどうして消えてしまうのか理解に苦しみます。

選ばれし人々は賢者のゆえに選ばれているのでしょうか。あるいは、賢者を自覚するが故にその立場にあるのでしょうか。しからば何も問題はないことでしょう。
しかしながら、現実には世襲が横行し、ろくなビジョンをもつでもなく、人気取りに巧みなだけの芸人崩れが選ばれる側の多くを占めているのではないでしょうか。
見栄えのするハンサム君やベッピンさんが眉間にしわ寄せた思慮深き元老を押しのけて易々と選挙に勝利するのは何故でしょうか。
そういう結果を導く原因こそ、自由と平等を正義に据え置く民主主義にあると小生は愚考する次第です。
よりよき社会を生み出すため、市井の有志にできるのは、こうしたゲリラ活動(笑)をおいて他にはないと。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 5日(木)18時07分55秒
  申しわけありません。何度もお返事をいただいて。

代案なき批判はためにする議論と同じではないでしょうか?

それと、選挙権の中には、被選挙権もありますよね。投票しか参政の方法があるわけではありません。選ばれる立場に立つという選択枝がどうして消えてしまうのか理解に苦しみます。

というように、能力に応じてきちんと選択枝そのものが限られています。選ばれる立場に立つ能力が
ないからこそ、選ぶ立場に立つということですよね。選挙権というものは。

自由でも平等でもないのが現実なのに、ありもしない自由と平等を敵視するのはあまり意味がないと
思います。
 

<あるべき姿>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 5日(木)06時04分36秒
  くまげん様

お返事ありがとうございます。

>民主主義が正義であるという世論が強いから、他の考えが思い浮かばない。
提案できない。というのはおかしな話

小生が先に行った書き込み、<立方体>は、まず、民主主義こそ正義という固定観念、思考停止に一石を投じてみた愚見に過ぎません。代案を示せぬなら民主主義に文句をいってはならぬというのでは、民主主義に反するのではないでしょうか。

>民主主義を批判できるのも民主主義の前提にある自由権ゆえに。

おっしゃる通りです。ゆえに、民主主義の欺瞞が批判されてよいのではないでしょうか。
愚見は、民主主義の欺瞞を自覚した上で、それが衆愚政治を生み出す悪循環をどのように断ち切って行くのかを考えるべきではないのかという提案に過ぎないわけです。民主主義が駄目なら賢帝政治をというのも、固定観念の一つに過ぎぬことでありましょう。小生は賢帝政治こそあるべき姿であるなどと申し上げた覚えもありません。

<立方体>を例に挙げるなら、質問を受けた子供たちのうち、大半が正解を出しうる高度な論理力なり直感力を身につけていたならば、多数決でも正解にたどり着けたわけです。しかし、現実はそのようにはなりません。つまり、“皆で選んでいればそれが最善”というのは、大いなる勘違いに過ぎません。
だから君主制がよいなどというのではなく、政(まつりごと)は賢人会議でなければならぬということです。そしてその賢人会議を達成するのに、今日のシステムは有効に機能しているとは言いがたいのではないでしょうか。

>SHOさんが言いたいのは能力に過分な自由は不自由をもたらすという考えではありませんか?

おっしゃる通りです。

>それについては、自由を行動の選択枝とすればよく、能力に応じて選択枝は各個人に
想定されるので過分になることはない。

これについては大いに疑問です。能力のあるなしは、誰が、あるいは何が決定するのでしょうか。「お前には為政者を選ぶだけの能力がないから選挙には参加するな」などと一体誰がいえるのでしょうか。
いえるとすればそれは国家であり、法であるのでしょうが、時代の趨勢はむしろこれに逆らい、未成年者や外国人にまで参政権を付与しようとさえしています。
そして、その根底にあるのが平等思想です。各々の能力やその生まれた背景を一顧だにせぬ横並び思想が、当然あるべき自由の制限を次々と撤廃しているのではないでしょうか。
これにより、賢人会議の達成はさらに困難となりつつあるといえるでしょう。責任という名の能力を伴わぬ自由が政治という自らの鏡を通して我々自身をさらに不自由にしているのだと私は思います。節度を失った自由は、我々を不自由にして行くだけです。

>しかし、何が賢いことなのかは、実は確定されません。

平等思想に束縛されてしまうと、何が賢いのかを確定する営みを放棄してしまいがちです。それでもなお、確定できぬものをまがりなりにも作り上げていく必要があるわけです。でなければ、あるべき姿をどうやって描けるというのでしょうか。あるべき姿を描く営みを放棄すれば、後にあるのは混沌と無秩序でしかないでしょう。

>というよりも、それを論議し体制として作り上げていくことが政治ですよね。

今日の衆愚政治でもってそれを作り上げるのは不可能でありましょう。それは、他ならぬ現実が証明しています。ゆえに、我々は自由と平等を絶対正義とする民主主義の欺瞞を自覚する必要があるのだと私は思います。
 

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