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<文化とは個々の意識の集合体>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 6日(金)08時50分51秒
  くまげん様

>下部構造の意識というものはありません。意識は上部構造=文化に属するものです。
>マルクスが言ったのは体と心の関係でたとえると、心が変われば行動が変わるのではない。まず、行動を変えれば心も変わるのだ。ということです。

これは単純な誤解に過ぎないことでしょう。小生のいう下部構造とは、民衆個々の意識です。一方、上部構造とは文化や文明、社会システムを指します。上部構造たる文化は下部構造たる個々の意識が集合して織り成す産物であるという解釈によって立つので、下部構造に意識が含まれぬという貴兄のご指摘は、マルクスの言うところがどうであれ、小生の論に関する限り適切ではありません。
もとより、小生自身は“心が変わることで行動が変わる、目に見えるシステムもよりよく生かされる”と考える者です。
ゆえに、個々の意識の足かせとなる民主主義に疑義を呈することには意義があるのです。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 5日(木)22時07分36秒
  現実にはあり得ないのは、経済的自由と社会的自由が同時に達成されるようなあり方と
能力に応じて富が分配されずに、存在において富が分配される平等です。

 横並びがお嫌いのようですが、人並みにとしたとたんに保障されるべきになるのでは
ありませんか?

 下部構造の意識というものはありません。意識は上部構造=文化に属するものです。
 マルクスが言ったのは体と心の関係でたとえると、心が変われば行動が変わるのではない。
 まず、行動を変えれば心も変わるのだ。ということです。

 下部構造は生産関係のことを普通は指します。これは流通の関係(物の流れ)情報の関係、
資本の関係の交通網です。(端的にいえば分業です。)人の暮らし方が変わるから、人の考え方
が変わるのだ。という考えです。

二世議員が通ってしまうのは、その方が都合がいい人々がいるからで、結局はその方が全体の利益の
ためになっているともいえます。(政治家同志のつながりがもともとあるわけでしょ。
いきなり、ぺーぺーのよくわからない(しっかりしてるかもしれないが)議員を送り込んでも仕事を
しないでもどってくるわけでしょ。

タレント議員や知事にしても仕事ができなければ、政治力を認められたりはしないでしょ。
一回目はご祝儀ということがあっても連続当選することはそう簡単ではありませんよ。

(私自身はそのような既得権益をより堅固にするような世襲には大反対です。しかし、そう
考える者がいまや少数なのもよく知っています。地元に何かをもってこれるだけのものは
結局<世襲>の積み上げしかないという判断は現実的なものなのでしょう。)
 

<下部構造の変容>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 5日(木)21時58分41秒
  くまげん様

こちらこそ、何度もお返事ありがとうございます。

>代案なき批判はためにする議論と同じではないでしょうか?

確かに、小生はシステムの代案を示しているわけではありません。しかし、それを示すばかりが社会を変えるための提案ではないことでしょう。
そもそも、システムの代案を示すということは、社会をその上部構造から下部構造へと変革していこうとする営みに他なりませんが、それをなさずとも、その下部構造の意識から変えて、その先にある上部構造の変容を促すという方法もあるわけです。
そして、それが教育というものではないでしょうか。
現実にはあり得ない自由や平等の概念を基に構築された今日の社会システム。そしてこれに疑問を抱かせようとしないサヨク教育こそが、社会全体をスポイルしていると小生は愚考します。ゆえに、それらの一つひとつを批判していくことに意義があると私は思います。なぜなら、それによって社会の下部構造が変容をはじめるきっかけとなるからです。

>選ばれる立場に立つという選択枝がどうして消えてしまうのか理解に苦しみます。

選ばれし人々は賢者のゆえに選ばれているのでしょうか。あるいは、賢者を自覚するが故にその立場にあるのでしょうか。しからば何も問題はないことでしょう。
しかしながら、現実には世襲が横行し、ろくなビジョンをもつでもなく、人気取りに巧みなだけの芸人崩れが選ばれる側の多くを占めているのではないでしょうか。
見栄えのするハンサム君やベッピンさんが眉間にしわ寄せた思慮深き元老を押しのけて易々と選挙に勝利するのは何故でしょうか。
そういう結果を導く原因こそ、自由と平等を正義に据え置く民主主義にあると小生は愚考する次第です。
よりよき社会を生み出すため、市井の有志にできるのは、こうしたゲリラ活動(笑)をおいて他にはないと。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 5日(木)18時07分55秒
  申しわけありません。何度もお返事をいただいて。

代案なき批判はためにする議論と同じではないでしょうか?

それと、選挙権の中には、被選挙権もありますよね。投票しか参政の方法があるわけではありません。選ばれる立場に立つという選択枝がどうして消えてしまうのか理解に苦しみます。

というように、能力に応じてきちんと選択枝そのものが限られています。選ばれる立場に立つ能力が
ないからこそ、選ぶ立場に立つということですよね。選挙権というものは。

自由でも平等でもないのが現実なのに、ありもしない自由と平等を敵視するのはあまり意味がないと
思います。
 

<あるべき姿>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 5日(木)06時04分36秒
  くまげん様

お返事ありがとうございます。

>民主主義が正義であるという世論が強いから、他の考えが思い浮かばない。
提案できない。というのはおかしな話

小生が先に行った書き込み、<立方体>は、まず、民主主義こそ正義という固定観念、思考停止に一石を投じてみた愚見に過ぎません。代案を示せぬなら民主主義に文句をいってはならぬというのでは、民主主義に反するのではないでしょうか。

>民主主義を批判できるのも民主主義の前提にある自由権ゆえに。

おっしゃる通りです。ゆえに、民主主義の欺瞞が批判されてよいのではないでしょうか。
愚見は、民主主義の欺瞞を自覚した上で、それが衆愚政治を生み出す悪循環をどのように断ち切って行くのかを考えるべきではないのかという提案に過ぎないわけです。民主主義が駄目なら賢帝政治をというのも、固定観念の一つに過ぎぬことでありましょう。小生は賢帝政治こそあるべき姿であるなどと申し上げた覚えもありません。

<立方体>を例に挙げるなら、質問を受けた子供たちのうち、大半が正解を出しうる高度な論理力なり直感力を身につけていたならば、多数決でも正解にたどり着けたわけです。しかし、現実はそのようにはなりません。つまり、“皆で選んでいればそれが最善”というのは、大いなる勘違いに過ぎません。
だから君主制がよいなどというのではなく、政(まつりごと)は賢人会議でなければならぬということです。そしてその賢人会議を達成するのに、今日のシステムは有効に機能しているとは言いがたいのではないでしょうか。

>SHOさんが言いたいのは能力に過分な自由は不自由をもたらすという考えではありませんか?

おっしゃる通りです。

>それについては、自由を行動の選択枝とすればよく、能力に応じて選択枝は各個人に
想定されるので過分になることはない。

これについては大いに疑問です。能力のあるなしは、誰が、あるいは何が決定するのでしょうか。「お前には為政者を選ぶだけの能力がないから選挙には参加するな」などと一体誰がいえるのでしょうか。
いえるとすればそれは国家であり、法であるのでしょうが、時代の趨勢はむしろこれに逆らい、未成年者や外国人にまで参政権を付与しようとさえしています。
そして、その根底にあるのが平等思想です。各々の能力やその生まれた背景を一顧だにせぬ横並び思想が、当然あるべき自由の制限を次々と撤廃しているのではないでしょうか。
これにより、賢人会議の達成はさらに困難となりつつあるといえるでしょう。責任という名の能力を伴わぬ自由が政治という自らの鏡を通して我々自身をさらに不自由にしているのだと私は思います。節度を失った自由は、我々を不自由にして行くだけです。

>しかし、何が賢いことなのかは、実は確定されません。

平等思想に束縛されてしまうと、何が賢いのかを確定する営みを放棄してしまいがちです。それでもなお、確定できぬものをまがりなりにも作り上げていく必要があるわけです。でなければ、あるべき姿をどうやって描けるというのでしょうか。あるべき姿を描く営みを放棄すれば、後にあるのは混沌と無秩序でしかないでしょう。

>というよりも、それを論議し体制として作り上げていくことが政治ですよね。

今日の衆愚政治でもってそれを作り上げるのは不可能でありましょう。それは、他ならぬ現実が証明しています。ゆえに、我々は自由と平等を絶対正義とする民主主義の欺瞞を自覚する必要があるのだと私は思います。
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年11月 3日(火)10時09分38秒
  ご丁寧な返信ありがとうござます。

民主主義が正義であるという世論が強いから、他の考えが<私は>思い浮かばない。
提案できない。というのはおかしな話ではないでしょうか?
民主主義を批判できるのも民主主義の前提にある自由権ゆえに。というのは
批判の対象にできないものではないでしょうか?

 SHOさんが言いたいのは能力に過分な自由は不自由をもたらすという考えでは
 ありませんか?

 それについては、自由を行動の選択枝とすればよく、能力に応じて選択枝は各個人に
 想定されるので過分になることはない。むしろ、自由であるのに能力がなくて選択枝
 がなくなるという事態の方が多いのではないか。という問題の方が多いと思います。

たとえば、人は雇用者ではなく被雇用者として生まれるわけではありません。雇用者にも
被雇用者にもなるのです。(封建社会ではそうではありません。)なのに、大勢の人々は
被雇用者たるように生きるのです。それは<責任>の問題です。

>民衆が自由に幸福になる手段を選べるなら幸福になれるのだという考えは、民衆という存在が、そもそも全体利益を考慮しない利己的性質を含むのだという観点を隠蔽しているのではないでしょうか。その主張がいきつくところは、衆愚政治でしかありません。
そしてそれは特別な例を持ち出すまでもなく、今日の政治がそれを証明しているのではないでしょうか

 全体利益はそもそも誰に利益をもたらすのでしょうか?であれば利己的な人間がいる
 だけできちんと船体利益ももたらされることになります。

 SHOさんがいいたいのは利益ではなく規則つまり道徳の保存のことではないですか?

 だからこそ、資本主義の話になるのですが…。資本主義、市場がもたらすものは、同じ
 階級であっても貧富による格差です。それが、それまであった道徳や共同体主義を破壊
 します。なぜなら、利益は能力に応じて分配されるという市場を通じた新しいルールが
 それらを駆逐していくからです。

衆愚政治の対義語はたぶん賢帝政治だと思いますが…、そもそも賢帝といわれるのは
政治がうまくいっているからです。暴君である保障は何ひとつありません。

つめり、賢帝を求める意識そのものが愚民の意識ということになりませんか?

賢帝であろうとひとりひとりがすること以外には無いとおもいます。
しかし、何が賢いことなのかは、実は確定されません。

というよりも、それを論議し体制として作り上げていくことが政治ですよね。
 

<その場の気分>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年11月 2日(月)19時18分18秒
  くまげん様

お返事ありがとうございます。

>民主主義をどう乗り越えるか。乗り越えた後の体制とは何かが提示されていません。

それを示さねば民主主義のあり方に疑問を呈してはいけないと貴兄はお考えなのでしょうか。今日のように、民主主義こそ正義という固定観念がまかり通っていたのでは、その先を示しようがないと私は思います。

>民主主義でなければ反民主主義もできない

これこそが固定観念ではないでしょうか。民主主義をとるからこそ、何でもできる自由があるというのは思い込みでしかありません。むしろ現実にはその自由のゆえに何もできなくなりつつあるのかもしれません。

>「議会制」で各々の立場を言論で保存するという仕組みをとるのがほとんどです。

議会制それ自体を否定するつもりはありませんが、多数決は賢人会議で行わねばならぬと申し上げているに過ぎません。

>その善良な大衆にはそれが最大幸福に思えるのですから、まったく問題はありませんね。

同じ事を再度ご指摘申し上げるのは気がひけますが、“最大幸福に思える”のではなく、“最大幸福をもたらす手段に思える”でありましょう。

>SHOさんは民主主義という体制と資本主義という構造をごっちゃにしてらっしゃる。

資本主義の話を持ち出した覚えは全くございません。小生の論を取り違えていらっしゃるのは貴兄の方ではないでしょうか。ゆえに、ご指摘の意味を理解いたしかねます。

>よい王様が納めればよい国になるのだ。という考えは、王様という存在がそもそも悪を含むのだという観点を隠蔽しています。

民衆が自由に幸福になる手段を選べるなら幸福になれるのだという考えは、民衆という存在が、そもそも全体利益を考慮しない利己的性質を含むのだという観点を隠蔽しているのではないでしょうか。その主張がいきつくところは、衆愚政治でしかありません。
そしてそれは特別な例を持ち出すまでもなく、今日の政治がそれを証明しているのではないでしょうか。

>自分が支持している人物、政党、思想は善であるというのはイデオロギーに他なりません。
>世の中の仕組みやいろいろなことを知っていて正しい判断の出来る者がそのような意図をもたないとしているのは、まったくもってご都合主義です

おっしゃる通りです。独裁政治が正しいなどと申し上げたつもりはございませんので、単純な誤解でありましょう。

>それに算数の授業なら、順序良く考える(論理的整合性にもとづいて考える)ことこそ、そこで教えるべきで、「なんとなく」で選ぶことは算数では正解ではないということを教えなければなりません。

おっしゃる通りです。最初に教師が多数決をとってみせたのは、授業参観ならでは演出的な要素があるのは間違いないことでしょうが、それが示唆するものとは、論理的思考を介在させることなく自己の直感だけで解答を選択することが間違っているということでしょう。
そして、小生はその授業に感じた民主主義の欺瞞を表現したに過ぎません。その欺瞞を仕方のないことだと思って沈黙するなら良しですが、貴兄のようなコメントを頂戴することになるなど全く予想外でした(笑)。

>算数で多数決なんてナンセンスですよ。もし本当に正解を多数決で決める先生だとしたら、、、大問題です。

これはあたりまえの話でしょう。一体誰が算数で多数決をとるのが正しい答えにたどりつく方法であるなどと思うでしょうか。
小生が先の授業から感じたのは、“算数のできない者が、解答欄にその答えだけを「その場の気分」で並べたてているのが今日の政治、民主主義のあり方そのものだ”ということです。
 

算数で多数決なんてナンセンス

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年10月29日(木)05時04分28秒
  ですよ。

 もし本当に正解を多数決で決める先生だとしたら、、、大問題です。

というか、そのようにSHOさんがその授業を解釈したにすぎません。
先生はそんなこと意図してませんよ。

本当ならどうして、これにしたの?と理由を問い。その理由を聞いて立場変更を求めるのが
民主主義の議論じゃないでしょうか?まさか多数決だけが民主主義のシステムだとSHOさんは
お考えなのですか?

そこまで子どもに考えさせれば、先生の問い方(そもそも、どれが箱になるかという問いが
ひっかけです。どれが…という疑問詞には、限られた数のというニュアンスで子どもには
共有されていて、選択せよという意味にとらえる子はいないですから。)のおかしさに気づき

どれもなるという意見(意見です。)が発生したかもしれません。

つまり、先生が意見を開陳するのではなく、児童が意見を述べ合う授業こそが本当ではない
でしょうか?

(つまり、この時点でその先生が算数科そのものに対する理解が本当に基準に達しているか
という問題。授業とは何かということにどう答えるのかという問題を孕んでいます。巨頭体制
や独裁体制、エリート主義についてまわるこのような疑義はユーザによる監視ということによ
ってしかその逸脱を防げません。しかし、監視を強化すると、おざなりに逃げる。それこそ、
どの教室へいっても一字一句が同じことしか言われない。という事態に陥るかもしれません。
ことほど現実は複雑です。)
 

その証拠

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年10月29日(木)04時54分19秒
  世の中を意のままに操ろうと思う者を否定していながら、
世の中の仕組みやいろいろなことを知っていて正しい判断の出来る者がそのような意図をもたない
としているのは、まったくもってご都合主義です。

 自分が支持している人物、政党、思想は善であるというのはイデオロギーに他なりません。
 つまり、世の中を意(イデオロギー)のままに組織したいという欲望の表明です。

横並び教育…うーん。基礎基本は横並びだと思いますよ。九九を習得するのは自己責任じゃ困ると
思いませんか。それに算数の授業なら、順序良く考える(論理的整合性にもとづいて考える)こと
こそ、そこで教えるべきで、「なんとなく」で選ぶことは算数では正解ではないということを教えなければなりません。

 パズルのように「そうなんだあ。やられたなあ」で終わるなら時間の無駄です。同じ正方形の紙を
六枚くばって箱になるようにテープでつなげという授業の方がまだマシでしょう。
(できない子がいて泣き出すかもしれませんが、横並びじゃなくていいんでしょ。それがSHOさん
の子でも。うちの子は馬鹿だ。仕方がない。先生ありがとう。と言えるわけですよね。恥をかかされた。じゃなくて。…本当に?)

 先生はそれは無理(当たり前です3年生の内容なんですから)だと考えて、クイズにしたんです。
 参観日の演出にすぎません。(そこにも政治があるんですね。)
 

SHOさんへ

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年10月29日(木)04時45分6秒
  ご丁寧な返信ありがとうございます。

民主主義のあり方に疑義という貴兄の主張はよくわかりました。
しかし、では、民主主義をどう乗り越えるか。乗り越えた後の体制とは何かが
提示されていません。

 つまり、民主主義(現在)のあり方は本来の民主主義のあり方ではないという
 主張と変わらないのではないですか?


民主主義の前提として自由権(基本的人権)の尊重があります。民主主義でなければ
反民主主義もできないという矛盾がそこにはあります。多数決が有効なのはこの自由権
が尊重され各々が各々の立場で最大幸福を追求する態度が確保されているという前提が
あるときだけです。

 その担保が難しいからこそ「議会制」で各々の立場を言論で保存するという仕組みを
 とるのがほとんどです。国会のみならず各委員会における発言がネットで簡単に読める
 のは日本が民主国家だからです。

メディア批判はその通りだと思います。が、その善良な大衆にはそれが最大幸福に思える
のですから、まったく問題はありませんね。隠された真実による判断が幸福をもたらすも
のだという保障は何もありません。(参照、岸辺のアルバム)

SHOさんは民主主義という体制と資本主義という構造をごっちゃにしてらっしゃる。
資本主義という構造の上に民主主義という体制がのっかっていることに矛盾があるのでは
ないかというならその通りかもしれません。じゃあ、どうします?共産主義という構造の
上に民主主義という体制を乗せますか?

選ばれた者による独裁性あるいは巨頭体制みたいなものを考えているなら、それこそ
最大多数の最大幸福が実現されることはありません。まったくの無意味です。
よい王様が納めればよい国になるのだ。という考えは、王様という存在がそもそも悪を含むのだ
という観点を隠蔽しています。
その主張がいきつくところは、ひとりひとりにICタグをつけスーパーコンピューターで行動
や幸福度を関連づけてデーターベース化しそのコンピューターがシミュンレーションし最善の
政策を実行するという<人間を排除した政治システム>の構築でしかありません。

完全な万能人がいないという現実の中で最善の選良を作り出すとすればそうなるのです。
 

<民主主義の欺瞞>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年10月14日(水)08時54分46秒
  くまげん様

返答すべきか否かためらわれましたが、お返事を試みてみましょう。

> 最大多数の最大幸福が民主主義の原則であり、これを政治に反映するために議会制が行われるというのが筋です。

おっしゃる通りです。ゆえに、民主主義そのものに疑問を呈しているわけです。民主主義こそ正しいというものの考え方は硬直した思考に過ぎず、今日行われるサヨク教育による洗脳の産物でしかありません。

>幸福は物理法則でも数学的真実でもなく、感情(受け止め方)の問題

ここまでは部分的に同意いたしましょう。

>その展開図の授業とはまったく違う論理

“多数決の結果が真ならず”という論理は何を例にとってみても明らかです。確かに、求めるところが最大多数の最大幸福であったとしても、実際に行われる政(まつりごと)というのは、皆で幸福の形を選んでいるわけではなく、そこに達するための手段を選択しているわけです。無論、この手段の選択には為政者の選択も含まれます。そして手段の選択には豊富な知識に基づいた卓越した慧眼が必要になることはいうまでもありません。にもかかわらず、その優れた視点を万民に求めることが正しい選択といえるでしょうか。ここに、民主主義の欺瞞があるわけです。

仮に、世の中を意のままに操ろうと企む者がいれば、民主主義は格好の道具になり得るでしょう。潤沢な資金でもってマスメディアのスポンサーにつき、世論を操ってしまいさえすれば良いからです。自分たちにとって都合のよいニュースだけを垂れ流し、都合の悪いニュースを伏せてしまえば、善良ではあっても愚かな大部分の大衆はその誘導に抵抗する術がありません。
そして、それは既に仮定のお話ではなく、現実のものとなっているのです。

>それに…申しわけないけれど、その先生は小1の教科書(指導要領の内容)を勘違い
しておられるようです。立方体の展開図は扱いません。(扱ってもよいのですが、前後
の内容からあまりにもかけ離れています。)

横並び教育を旨とするサヨク教育とは真っ向から対立する先鋭的な私立学校だからこそ、行われている授業です。勘違いではありません。
 

越境問題について

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年10月11日(日)07時00分16秒
  解決策は二つあります。
東京都全区において学区制の廃止。つまり、自分で行きたい学校を選んで、地下鉄、バスの
フリーパスで通う。バスケットボールを学校生活の中心にしたい部活が強ければそれでいい
という保護者の方と生徒は少数の学校に集まってくれると思います。

一方で、ほどほど楽しくという生徒、保護者はそんな学校は選びません。
<出ると負け>でも選手にはなれるわけですね。楽しい部活ができるわけです。


二つ目は、バスケットチームを複数編成することです。トップリーグとセカンドリーグに
すればいいですね。部員の多い学校は必ず二部編成すると。
同じくらいの実力で争えるのでレベルも上がっていいんじゃないでしょうか?

 <地元の子が選手になれない>ってことがそんなに重大事ならこんな方法で解決するのが
 いいと思います。

ただ、昔は強いから俺ごときが選手になれないのは仕方ないという気持ちの方が強かったはずです。余所者にでかい顔されて気が済まない。なんてことを親にほざくのは負け犬です。
もう将来の希望もあったもんじゃありません。世の中に出たら学区別に企業が競争させて
くれるでしょうか?自分のチームが勝つことよりも、自分が選手として出る方が大事…
申しわけありませんが、そんな選手は指導者としては使いたくありません。
 

最大多数の最大幸福

 投稿者:くまげん  投稿日:2009年10月11日(日)06時52分40秒
  が民主主義の原則であり、これを政治に反映するために議会制が行われるというのが
筋です。

 幸福は物理法則でも数学的真実でもなく、感情(受け止め方)の問題なので、
その展開図の授業とはまったく違う論理です。


 それに…申しわけないけれど、その先生は小1の教科書(指導要領の内容)を勘違い
しておられるようです。立方体の展開図は扱いません。(扱ってもよいのですが、前後
の内容からあまりにもかけ離れています。)
 

<立法体>

 投稿者:SHO  投稿日:2009年10月 6日(火)09時21分11秒
  先日、倅の日曜参観に参加する機会があった。小学一年生の算数で立方体の展開図に関する授業だった。黒板に立方体の展開図が四種類示され、その中からさいころの形になるものを選ばせるという問題で、四種類の展開図にはそれぞれ番号がふってあり、まず初めに、そのうちのどれが立方体になるか多数決がとられた。観ている親たちもどこまで正解しているのかあやしいものだったが、一番から三番まで、それが立方体になると判断した児童は圧倒的少数で、4番のみ、全員一致で立法体になるという結果だった。その後、実際にそれらの展開図を紙で切り取って児童に立法体を作らせ、正解を納得させるという内容だった。

これは、物事の形が複雑になると多数決では決して正解が得られない見本のようで印象的だった。つまり、多数決の結果は誤答であり、“全て立法体になる”が正解なのだが、そのように判断したのは極めて少数であり、一割に満たない。
結局、問題が煩雑になると、正しい判断はごく少数の賢者の間でしか共有することができないのである。にもかかわらず、それらを合議制の名のもとに多数決で決めればどうなるか。ここに議会制民主主義の限界がある。人気投票で政治が良くなるはずがないのだ。まあ、当たり前の話ではあるのだが。
 

越境について

 投稿者:賛同  投稿日:2009年 9月10日(木)10時14分1秒
  国立1中女子バスケ、与野東女子バスケも不正な越境があり、教育委員会も学校も何もしないのは、間違ってると思う。
大阪市のホームページを見ると、越境入学を許さないと書いてます。
市が地元のために動いてるのはあたりまえでしょう。
公立中学なのに、越境入学を教師がさせてることは良いのでしょうか??
教師として失格だと思います。
教師はこんなことぐらじゃ クビにならないのですから、、
教育委員会は考えるべきだと思います。
 

国1女バス越境と同じだね

 投稿者:バレー  投稿日:2009年 8月26日(水)23時45分43秒
  国立1中女子バスケットボール部の不正が一部、ネットに出ていますが、愛知県などますこみ他県でもあるんですね。多くはマスコミにすっぱ抜かれて問題となり顧問や校長は処分されています。
バレーボールでも、渋谷区の公立中の鉢山中や千葉県の中学での越境が新聞に出て問題となっていますね。鉢山中越境、中学越境で検索するとヒットしますよ。
新聞を見るかぎり、学校も教育委員会もマスコミに出るまでは動かないみたいよ。
 

国立1中女子バスケット部

 投稿者:少し賛同  投稿日:2009年 8月16日(日)22時40分20秒
  越境する場合、小学校時代にいじめを受けていたと申告すれば、許されることが多い。それが、うそでも。この場合がそうなのかわからないが。学校も教育委員会もことなかれ主義が残念。少なくとも教育の場で親御さんや子供らがいがみあうような事態を行政や学校は是正する努力をすべきだ。越境された地域の子供、越境先の地域の子供にとってあきらかによいことではない。越境した子供にとっても、中傷され、いろいろなことを思われながら試合にでるのだからかわいそうな気もする。まあ、でもこういう子供や親は優勝して関東、全国大会に行けばそれでよしとするのか。どちらにしても学校という教育機関が中心となって地域のつながりをを壊している。行政の制度にも問題があり。  

さいたま市立与野東女子バスケ

 投稿者:さいたま市内在住  投稿日:2009年 8月 6日(木)23時01分58秒
  与野東女子バスケは高校受験で、公立の高校のバスケ推薦があるといいます。
公立の高校なのにバスケ推薦があるのは、裏で取引があるに違いない。

問題にならないのか不思議です。
 

さいたま市立与野東女子バスケ部

 投稿者:賛同します。  投稿日:2009年 8月 4日(火)12時22分39秒
  さいたま市立与野東女子バスケ部も、先生がスカウトをして学区の生徒の親から住民票を借りて入学させてます。
学校側は強くなればそれで良いと思っているのでしょう。
顧問も、越境の子達メインの試合で、差別を感じます。
なぜ、許されるのか? なぜ、不正をして入学させてる顧問は子供たちに指導が出きるのか?  納得いきません。
 

教育の機会は保障されている

 投稿者:レイニー  投稿日:2009年 7月31日(金)10時11分50秒
  今朝の朝日新聞東京本社版によると、国立大学の進学者について調査したところ、
親の収入による進学率の格差はほとんど存在しないことが明らかになった。

私立については当然差があった。

勉強ができれば貧富の差に関係なく進学できることが明らかになった。
 

以上は、新着順1番目から20番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  |  《前のページ |  次のページ》 
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