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くまげん様
お返事ありがとうございます。
>民主主義が正義であるという世論が強いから、他の考えが思い浮かばない。
提案できない。というのはおかしな話
小生が先に行った書き込み、<立方体>は、まず、民主主義こそ正義という固定観念、思考停止に一石を投じてみた愚見に過ぎません。代案を示せぬなら民主主義に文句をいってはならぬというのでは、民主主義に反するのではないでしょうか。
>民主主義を批判できるのも民主主義の前提にある自由権ゆえに。
おっしゃる通りです。ゆえに、民主主義の欺瞞が批判されてよいのではないでしょうか。
愚見は、民主主義の欺瞞を自覚した上で、それが衆愚政治を生み出す悪循環をどのように断ち切って行くのかを考えるべきではないのかという提案に過ぎないわけです。民主主義が駄目なら賢帝政治をというのも、固定観念の一つに過ぎぬことでありましょう。小生は賢帝政治こそあるべき姿であるなどと申し上げた覚えもありません。
<立方体>を例に挙げるなら、質問を受けた子供たちのうち、大半が正解を出しうる高度な論理力なり直感力を身につけていたならば、多数決でも正解にたどり着けたわけです。しかし、現実はそのようにはなりません。つまり、“皆で選んでいればそれが最善”というのは、大いなる勘違いに過ぎません。
だから君主制がよいなどというのではなく、政(まつりごと)は賢人会議でなければならぬということです。そしてその賢人会議を達成するのに、今日のシステムは有効に機能しているとは言いがたいのではないでしょうか。
>SHOさんが言いたいのは能力に過分な自由は不自由をもたらすという考えではありませんか?
おっしゃる通りです。
>それについては、自由を行動の選択枝とすればよく、能力に応じて選択枝は各個人に
想定されるので過分になることはない。
これについては大いに疑問です。能力のあるなしは、誰が、あるいは何が決定するのでしょうか。「お前には為政者を選ぶだけの能力がないから選挙には参加するな」などと一体誰がいえるのでしょうか。
いえるとすればそれは国家であり、法であるのでしょうが、時代の趨勢はむしろこれに逆らい、未成年者や外国人にまで参政権を付与しようとさえしています。
そして、その根底にあるのが平等思想です。各々の能力やその生まれた背景を一顧だにせぬ横並び思想が、当然あるべき自由の制限を次々と撤廃しているのではないでしょうか。
これにより、賢人会議の達成はさらに困難となりつつあるといえるでしょう。責任という名の能力を伴わぬ自由が政治という自らの鏡を通して我々自身をさらに不自由にしているのだと私は思います。節度を失った自由は、我々を不自由にして行くだけです。
>しかし、何が賢いことなのかは、実は確定されません。
平等思想に束縛されてしまうと、何が賢いのかを確定する営みを放棄してしまいがちです。それでもなお、確定できぬものをまがりなりにも作り上げていく必要があるわけです。でなければ、あるべき姿をどうやって描けるというのでしょうか。あるべき姿を描く営みを放棄すれば、後にあるのは混沌と無秩序でしかないでしょう。
>というよりも、それを論議し体制として作り上げていくことが政治ですよね。
今日の衆愚政治でもってそれを作り上げるのは不可能でありましょう。それは、他ならぬ現実が証明しています。ゆえに、我々は自由と平等を絶対正義とする民主主義の欺瞞を自覚する必要があるのだと私は思います。
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