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Re: 北朝鮮とハゲ

 投稿者:つるぴか男  投稿日:2017年 4月26日(水)20時12分55秒
返信・引用
  ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた様へのお便りです。

> いきなりセンセーショナル言うか過激な題名だけどもまぁあれだ、北朝鮮が世界を相手に挑発してるようにまぁあれだ、ドフサの私もハゲを挑発している訳だしまぁあれだ、ハゲが怒ってくるのを見るのは面白いw
>
> まぁあれだ、あんまりこんなことばかり書いているとまぁあれだ、また毛根アク禁いやアク禁になるわけでまぁあれだ、ハゲ差別主義者なりに自主規制をするとまぁあれだ、私がハゲに対して個人的な恨みあるのはまぁあれだ、意味深長と言うかそれなりに相当やなw
>
> 1回でまとめて書くのはもちろん到底不可能であるのでまぁあれだ、数回言うかおいおい書いてみようと思うw

■↑のそれほど長くない文章の中に「まぁあれだ」という語句が九つもあるのだが、これは一体??

私がハゲに対して個人的な恨みあるのはまぁあれだ

■あなたはハゲに対して個人的な恨みをお持ちのようですが、そのような経緯に至った第三者が納得するような
エピソードがございましたら、タイトルを統一し、ここで大いに語って下さい。※作り話は不要。
僕もツルピカのハゲ頭なので興味があります。
この掲示板には僕の他にハゲ男さん・在大阪つるっぱげ中年さん・山田家の鉄ヲタ三兄弟・鉄ヲタ研究会の
会長さんのようにハゲが多いので、みなさん興味津々だと思いますよ。
?
 
 

(無題)

 投稿者:つるぴか男  投稿日:2017年 4月26日(水)19時55分32秒
返信・引用
  え!アクセス禁止、解除されたのか◎o◎
さすがは管理人殿!。心が広い!
 

北朝鮮とハゲ

 投稿者:ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた  投稿日:2017年 4月26日(水)10時38分20秒
返信・引用
  いきなりセンセーショナル言うか過激な題名だけどもまぁあれだ、北朝鮮が世界を相手に挑発してるようにまぁあれだ、ドフサの私もハゲを挑発している訳だしまぁあれだ、ハゲが怒ってくるのを見るのは面白いw

まぁあれだ、あんまりこんなことばかり書いているとまぁあれだ、また毛根アク禁いやアク禁になるわけでまぁあれだ、ハゲ差別主義者なりに自主規制をするとまぁあれだ、私がハゲに対して個人的な恨みあるのはまぁあれだ、意味深長と言うかそれなりに相当やなw

1回でまとめて書くのはもちろん到底不可能であるのでまぁあれだ、数回言うかおいおい書いてみようと思うw
 

学校の遠足について 中学校編

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月25日(火)23時17分57秒
返信・引用 編集済
  皆さん、こんばんは。鉄ヲタ研究会の会長です。
相変わらずネタが枯渇気味なので「学校の遠足について 小学校編」に引き続き、「中学校編」を書いていきたいと思います。
因みに僕は大阪府堺市の市立の中学校に通っていた。市立・・・んーまぁ公立といえばいいのか。

■中学1年(昭和57年)・・・
1学期…6-7月頃に宿泊訓練として1泊2日で兵庫県の青垣町へ。 2学期…徒歩で泉北ニュータウンへ。 3学期…無かったと記憶している。

■中学2年(昭和58年)・・・
1学期…7月頃に宿泊訓練として2泊3日で竹野海岸と鉢伏山へ。 2学期…貸切バスで奈良公園へ。 3学期…無かったと記憶している。

■中学3年(昭和59年)・・・
1学期…5月の終わりに修学旅行。3泊4日(内1泊は関西汽船・船内泊)で長崎・阿蘇へ。 2学期…貸切バスで大阪と奈良の県境にある葛城山へ。
※3学期は受験で無かったと記憶している。

☆宿泊訓練=確か、このような名称だったと記憶している。
☆中学1年の2学期…徒歩で泉北ニュータウンは、何故か徒歩で超近場・・・金がなかったのか?
☆中学3年の2学期…貸切バスで大阪と奈良の県境にある葛城山は登山である。
☆宿泊訓練&修学旅行は1日ずつ当時の記憶を元に書いていきたいと思う。
☆修学旅行は伊丹から全日空で長崎へ。貸切バスで九州を横断し、別府から関西汽船で大阪・弁天埠頭へ。

中学になれば、遠足を校外学習と表現する人が居た。そう言えば中学の時、クラスの奴が「もうすぐ運動会やな」というと、
それを聞いた先生が「体育大会と言え!」と苦言を呈していた。この先生はひょっとして自分の魂に酔っていた・・・?
ま、それはいいとして小学校と中学校を比較すると雰囲気・空気がガラっと変わったのを実感した。
又、体が子供から大人へと成長する頃であり、僕もこの中学の時に背が高くなったし、チンコがデカくなった。
もちろん、その周りに毛が生えたし、精子をぴゅっ!ぴゅっ!・・・と出すようになった。
※この頃、僕の頭はフサフサ・・・まさか中学を卒業した15年後にハゲになるとは、この時は思いもしてなかった。

おっと、話が変な方向に進みつつあるので、今日はここまでにしておこう。では諸君。また明日か明後日にお会いしましょう。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ⑧

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月25日(火)20時38分54秒
返信・引用 編集済
  ⑦からの続き。

⑥で書いた通り、僕は1982年の3月にM君と名古屋に行ったが、その数日後、岐阜の方に行った。

●1982年(昭和57年)3月。姉と兄と僕の3人+親戚の数人で岐阜のお墓参りへ。
このお墓参りは父方の祖父の○回忌であり、本来であれば両親が行くところであるが、⑥でも触れた通り、この時、父は著しく体調を崩していたので、
代わりに僕たち兄弟が行くことになったのである。因みに妹は来ていない。
※父方の祖父は僕が幼少の頃に他界した。酒が好きだったらしい。

まずは津久野から阪和線や環状線等を乗り継いで新大阪へ。キップは津久野駅の窓口で僕が「へい!岐阜羽島まで大人2枚、子供1枚、自由席や、ヨロシク!」と
言って購入した。子供とは、もちろん僕である。因みに何時何分に家を出たのか…さらに新大阪から「こだま○○○号」に乗ったのか…については憶えていない。
前日に親戚の人から「新大阪○時○○分発のこだま○○○号に乗るから、新大阪にはそれに合わせておいで。○番線から出るから」で電話があったので、
それを元に行動し、僕は鉄ヲタなので新大阪まで姉と兄をエスコートした。
ついでに、新大阪から乗った「こだま」は9:14発の224号だったような気がするが、ちょっと曖昧である。

新大阪のホームで親戚数人と落ちあい、こだま224号と思われる列車に乗車。この頃、既にオレンジ色に茶色のラインが入った簡易リクライニングシートが
登場していたと思うが、そのような座席はまだ少数派だったのか、僕たちが乗った車両は、あの昔ながらの転換クロスシートだった。
3人掛けの席でも、あのパタンで倒す奴な。因みに帰りも同じ奴だった。このパタン!と倒す奴はJRになってもまだ残っていたと思う。

岐阜羽島に到着すると遠い親戚の人達が車数台出迎えに来ており、それに乗って寺??へ。
坊主がお経を読んでいる時は、あまり憶えていないが、その後、従妹と木曽川の広~い堤防でボール遊びをして遊んだ。この後、何時何分発かは憶えていないが
夕方頃の「こだま」で帰った。この頃の新幹線は今とは走行音が違い、走行中は頻繁にカッカコッコ・カッカコッコ・カッカコッコ…という音を発していた。
あれはカーブを走行中の音やったんかな・・・むむ?、カープはロングレールではなかった・・・?

子供の頃に経験した乗り鉄シリーズを執筆中に昭和54年から55年頃に母&兄弟または母方の祖父と六甲・鞍馬・赤目四十八滝に行った事を思い出したが、
もう書かないことにした。この子供シリーズはここまで。次は中学生シリーズを書いていきたいと思う。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ⑦

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)22時15分22秒
返信・引用 編集済
  ⑥からの続き。

1980年(昭和55年)・・・1981年(昭和56年)頃になると姉とか兄が高校や中学に進級し、お金が掛かるようになった為か、
家族で遠出をする回数がかなり減ってきた。⑥で書いたが、1981年の2月にM君と米原に行った後、5月に修学旅行で伊勢に行ったものの
もうその後は1982年(昭和57年)になるまで遠出はしていない。M君と大阪駅まで写真を撮りに行ったが、そういうのは遠出ではない。

で・・・そんな日々が続いていたが・・・

●1982年(昭和57年)3月。M君と一緒に名古屋へ。
小学校を卒業する直前にM君が名古屋へ行こうと言いだした。目的は「北アルプス・しなの・しらさぎ・ひだ・南紀」を撮る為である。
僕はお年玉をもらったりして金があったので、このM君の誘いに即決した。この時、父が著しく体調を崩していたが、僕はまだ子供だったゆえに緊張感が
なかったものと思われる。

朝の4時半前に自転車でM君の家に行き、一緒に津久野駅へ。津久野駅の窓口で名古屋までの切符を購入した。キップを途中で分割すれば少しは
安くなったのかも知れないが、この当時は、このような知恵はなかった。この時代、津久野駅の窓口はこんな早い時間帯から開いていたのである。
因みに今は開いていない。
まずは阪和線の初電と環状線を乗り継いで大阪へ。大阪から名古屋へは↓の乗り継ぎで移動した。

大阪6:12(722M・113系)7:58米原8:00(534M・113系)9:22名古屋

名古屋に到着後、まず僕たちは新名古屋を9:35に発車する名鉄の「北アルプス」を撮りに行く為、新名古屋駅へ。
この当時、新名古屋駅には自動券売機はなかったのか???・・・入場券は有人窓口で購入した。
で、時間通りに「北アルプス」が到着!。さて撮るか!とシャッターを押したが、やはり僕のフラッシュナシのカメラでは無理だった。
「北アルプス」は排気ガスを大量に排出しながら発車。この時の映像が今でも脳ミソの中に残っている。

この後、名古屋駅で津久野までの切符を買い、キハ82の「ひだ」と「南紀」、381系の「しなの」、485系の「しらさぎ」を撮影するなりして
思い思いに過ごし、もう昼すぎには自宅に帰ることに・・・。帰りは大阪まで↓の乗り継ぎで移動した。
名古屋12:55(3125M・117系)13:30大垣13:32(797M・113系)15:57大阪

3125Mは関西の新快速と同じ117系であり、この当時は6両編成。絵入りのヘッドマークが用意されていた。
797Mは大垣始発の西明石行きであり、新垂井経由だ。

僕は子供の頃、京都と大阪の間にある向日町運転所の真横を通過するのが好きで好きで仕方がなかった。
理由はブルートレインが沢山休んでいたからである。

⑧に続く。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ⑥

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)21時21分23秒
返信・引用
  ⑤からの続き。

●1981年(昭和56年)2月。同級生のM君と米原へ。
ある日、鉄道写真好きのM君が「加越としらさぎを撮りに米原まで行こう」と言い出した。因みに、当時、僕は↑のN君の時もそうであるが、誘われて
ばかりであり、自ら先頭に立って誘う事はあまりなかった。振り返れば、僕は丁度、この頃からお人好しになってきたような気がする。
あと、↑の和歌山の時と同じく交通費はお年玉だったと記憶している。
※このお人好しの性格が、その後、自分自身を苦しめることに・・・特に10代半ばの頃。お人好しは「ぱしり・いじめ」を誘発するのだ。

朝、早くに津久野駅でM君と落ちあい、窓口で米原までのキップを購入。途中の駅で分割すれば、運賃が安くなったのかも知れないが、
この当時はこのような知恵がなかった。

阪和線と環状線を乗り継いで大阪へ。ここでM君はブルートレインなどを撮影していたが、僕はあまり撮ってなかった。理由はフィルムの枚数が
少なかったからである。あと、冬場の朝早い時間帯は暗いのでフラッシュがないと撮れなかったような・・・
と言うのは、僕が持っていたカメラはフラッシュがなかったのだ。周りが暗い時にシャッターを押すと「のぞき窓」のところにエラーですよ、
という合図なのか、黄色の幕で出ていたと記憶している。
因みにM君のカメラはポケットカメラであり、フラッシュが内臓されていた。

大阪から米原へは、まず京都まで大阪を8:10頃に発車する近江今津行きの臨時快速に乗車した。この臨時快速は117系だった。
米原まで行くのに、何故、これに乗ったのか?・・・それはこの電車が京都方面の先発だったからだと記憶しいる。
京都から先は、あまり憶えていないが、113系のいつもの電車に乗車したものと思われる。

米原に到着すると銀世界で驚いた。記憶によると・・・お目当ての「加越」は走っていたが、もう一つのお目当てである「しらさぎ」を
見掛ける事はなかった。雪で大幅に遅れていたのか。この辺りの記憶はかなり曖昧である。実際、この時に撮った写真に「しらさぎ」がない。

他、米原駅で旧型客車を見掛けた。これは米原発・長岡行きの長距離鈍行であり、手元にあるこのほぼ1年後に発行された
公社大型1982年1月号の時刻表によると列車番号は523、運行時刻は米原10:33→長岡23:23となっている。
ホームに居たおっさんが、立ち食いのうどんの店で「うどん・そば?」を買い、車内で食うのか、容器ごとそのまま523列車の
車内に入って行った光景が未だ脳裏に焼き付いている。

さらに米原駅でヘッドマークを掲げた475系統が停車していた。マークは「くずりゅう」ではなく、空欄だったと記憶している。
これは米原12:39発の富山行き(福井から快速)だったのかも知れない。そしてそのヘッドマークであるが、良く見ればピンがあり、それを外すと
本をめくるように「立山」や「ゆのくに」「くずりゅう」と自由に変えられる構造であることに気付いた。
僕とM君はステップに乗り、そのピンを外して遊んだのは言うまでもない。ただ、この遊びも今の時代にこのようなことをすればもう大変である。
今では補導されて、親(保護者)が引き取りに行くパターンになるのかな?と思う。この時代は、このような事にはあまり五月蠅くなかったのかも知れない。

この時は、もう昼過ぎに113系に乗って帰ったものと思われる。

⑦に続く。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ⑤

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)21時16分31秒
返信・引用
  ④からの続き。

●1980年(昭和55年)の秋頃。同級生のM君と一緒に和歌山駅へ。
僕は小学4年頃になれば同級生のM君と何度か大阪駅へ出向き、良くブルートレインなどを撮っていたが、
ある日、M君は大阪駅だけでは飽きてきたのか、和歌山駅へ行こうと言いだした。もちろん、日帰りだ。
※この当時、クラスに「にわか鉄ヲタ」が増殖し、一度だけ5人くらいて大阪駅に行ったことがある。
 そして、その中心人物が僕とM君だった。
※↑で書いたN君は写真には興味がなく、大阪駅まで一緒に撮りに行くことはなかった。

この時は自宅から自転車で鳳駅まで行き、113系の快速に乗車した。この当時の阪和線の快速は6両編成だったと記憶している。
和歌山では主に「くろしお」を撮影。他、紀勢本線の旧型の客車列車を見掛けた。多分、これは新宮行きだったものと思われる。
で・・・この新宮行きが発車する時、車内に居たガキ共(中学生くらい)が我々に対して何かを投げてきた。
何?と思い、良くみればそれは「ぼんち揚げ」だった。これはイタズラ、悪く言えば喧嘩を売っていた・・・イジメである。

帰りも行きと同じく113系の快速に乗車した。この当時の快速は・・・113系なので最高速度は100キロであるが、
今よりも活き活きとしたノリで走っていたと記憶しいる。
車内には通路を挟んだ隣のボックスに犬を連れたおばはんが2人が座っていた。もちろん犬はケースに入れていた。
ただ、その犬、キャンキャン吠えて五月蠅かったのだ・・・。で、世間知らずの僕がM君に対して「五月蠅いな・・・迷惑やな」と大きな声で言うと、
何とそれを聞いたオバハンが「あたしらは、別に金払ってるんよ!」と急にキレだしたのである!。要はヒステリーだ。
その勢いに、僕とM君は位負け・・・しゅんとしたのは言うまでもない。
僕は、この当時から「迷惑」という言葉と、その意味を知っていたのだ。

●1981年(昭和56年)1月。同級生のN君と一緒に和歌山駅の周辺へ。
ある日、同級生のN君が阪和線・紀伊中ノ島駅の真下にある旧ホームを見学しに行こうと言いだした。
紀伊中ノ島駅の旧ホームとは・・・昔、和歌山線が現・和歌山市駅に直通していた頃の遺構であり、線路は剥がされていたものの
当時のホームが阪和線・紀伊中ノ島駅の真下に辺りに残っていたのである。
※このホームは今でも残っていると思う。
※N君は当時、小学5年であったが、鉄ヲタの兄の影響なのか、このようなモノに興味があったのである。

行きは・・・まず自転車で津久野駅へ行き、阪和線の各停と快速を乗り継いで和歌山へ。さらに紀勢本線に乗り換えて紀和へ。
紀和に到着した後は徒歩で件の紀伊中ノ島駅へ。そして旧ホームを見学した。
この時、N君が「昔、ここを東京行きの列車が走ってたんやで」と説明してくれたと記憶している。

この後、田井ノ瀬方面へ歩いた。途中に和歌山線の車庫があり、そこにはディーゼルカーが停車していた。
で・・・車両に天ワカと表記されていた為か、N君がいきなり「天ワカってどういう意味か知ってるか?」と言い出した。
僕は当時からコロタンやケイブンシャの鉄道関連の本を愛読していたし、時刻表を見ていたので「天王寺鉄道管理局の和歌山・・・やろ」と
答えると、N君は、こいつは知ってる!と思ったのか、「大ムコは?」とか「金サワは?」とか次から次へと問題を出してきた。
僕は大ムコや大ミハ、盛アオや南シナ、門ハイなどメジャーなものは答える事が出来たが、さすがにマイナーなものは知らなかった・・・。
でもN君は知っていたのだ。あと、N君はこの当時から特牛や宇出津、冷水浦などの難読駅名も知っていた。

この後、N君は田井ノ瀬駅まで行こうと言ったが、僕はしんどかったのか拒否した。・・・という訳で和歌山駅へ。ここから快速に乗って家に帰った。
N君と鉄道関連で一緒に行動したのは、これが最後。ただ、小学校を卒業するまで良くN君の家に遊びに行っていた。

⑥に続く。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ④

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)21時08分22秒
返信・引用 編集済
  ③からの続き。

●1980年(昭和55年)の夏休みの終わり頃
鉄ヲタの同級生であるN君が、ある日、津久野→和歌山→王寺→奈良→京都→大阪→天王寺→津久野の一筆書きの乗車券を使って日帰りの旅に出掛けた。
で・・・そのN君の旅に刺激を受け、僕もこのキップを買って実践する事に!。因みにこのキップ、津久野駅では発行出来ないとか何とかで・・・
前日にわざわざ天王寺駅まで行き、駅構内に設けられていた旅行会社で発行してもらう事にした。N君も「お前わからんやろ」という事で僕に付き合ってくれた。
因みにN君の兄も鉄ヲタで、自宅に行けば本棚に鉄道ジャーナルと公社大型時刻表がずらーっと並び、その中には何と戦前や昭和30年代の時刻表の復刻版が!

※このような一筆書きのキップは本当に当時の津久野駅では発行出来なかったのか?。未だに謎である。
 機械は無くても、手書きで可能だったような気がする。

この時の乗り鉄を記憶を元に当時を振り返ってみたい。これは人生初の一人旅という事になる。因みに当時、僕は小学5年。

朝は早かったので、父に津久野駅まで車で送ってもらう事にした。因みに車はハコスカのスカイライン2000GTの中古、何とAT車である。
当時、父が「6気筒やで」と自慢していたのを憶えている。職場の人から譲ってもらったようだ。

まずは津久野を5:30過ぎに発車する和歌山行きの初電に乗車。車両は103系だ。

和歌山に到着した後は、和歌山線の王寺行きの普通列車に乗車。で、この普通列車…この当時はDE10が牽く旧型の客車列車だったのである。
この当時の時刻表は自宅に現存していないので正確な時刻は分からない。手元にある公社大型・1982年(昭和57年)1月号によると
列車番号は422、時刻は和歌山6:53→王寺9:31となっている。乗車した車両はオハフ33だったと記憶しているが曖昧である。
422列車の車内で小学生の坊主が一人、ボックス席にポツンと座っていた為か、それをみた車掌が「どこまで行くの?」と訊いてきた。
僕は「津久野」と答えると、車掌は「津久野?…ちょっとキップを見せてくれる」と返してきた。
で、キップを見せると、なるほどといった表情をしていた。

王寺に到着した後は、関西本線の普通に乗って奈良へ。車両は101系だ。窓が全開だったので非冷房である。
今ではあまり想像が出来ないが、この頃はまだ非冷房の電車が沢山走っていたのである。もちろん、阪和線にも走っていた。
乗車距離は津久野から合算すると100Kmを超えていたので途中下車が可能であったが、この頃、僕はこのような知恵がなかった。
ただ、N君は王寺まで来たら「途中下車が可能やで」と言っていたと記憶している。でも僕はあまり理解してなかったし、興味がなかった。

奈良に到着した後は、奈良線に乗って京都へ。車両はキハ35。この当時の奈良線は、まだ非電化でありディーゼルカーが走っていた。
もちろん、非冷房・・・。他、奈良線は単線なので人生初の行き違い停車を体験した。
停車中、車内に入り込んできたオイルのような独特な匂いが未だ脳裏に焼き付いている。

京都から先は新快速に乗車して大阪へ。車両は登場して間もない117系シティーライナーだ!。
生れて初めての新快速、生まれて初めての117系に感動した。ちゃんと窓側に座ったのは言うまでもない。
この当時、新快速は内側線を走行し、京都から大阪までノンストップだった。

大阪に到着した後は、環状線や阪和線に乗車。昼過ぎに津久野に到着。

津久野に到着した後は自宅には帰らず、今回の乗り鉄の報告をする為にN君の家へ。
N君は僕に「キップちゃんと保管してるか?残してるか?」と訊いてきたので、僕が「津久野の駅員に渡した」と答えると
N君は「えー、駅員さんに貰っていいですか?と言えば良かったのに・・・」と苦笑いしていた。
N君は兄の影響で色々と知識があったし、あと、今思えば小学5年の割には少しませていたのかも知れない。

今、和歌山線は大阪近郊区間に含まれているので↑の経路は120円+120円の大回り乗車が可能だが、
この時代・・・和歌山線は、この大阪近郊区間に含まれてなかった。

⑤に続く。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ③

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)21時02分54秒
返信・引用
  ②からの続き。

●1979年(昭和54年)8月。母の帰省で2年連続で金沢の方へ。父は来ていない。
行きは大阪駅を11:00頃か正午頃に発車する雷鳥の指定席に乗車。この時も、この485系の座席はリクライニングがなかったと記憶している。
この車両もやはり485系の200番台以降ではなかった・・・?。帰りは昨年と同じく雷鳥の自由席に乗車した。
この頃になれば583系の雷鳥が走っていたが、行きも帰りも当たることはなかった。

この時は、ついでに日本海で海水浴を楽しんだ。場所は金沢周辺ではなく、福井県の芝政だった。現地への交通機関は親戚の車である。
これは生れて初めて日本海で泳いだことになる。この芝政は遠浅ではなかったと記憶している。

●1979年(昭和54年)8月下旬。この年の夏は、他に一泊二日で琵琶湖・彦根の方にも行った。これは家族旅行である(父は行っていない)。
彦根へは国鉄を利用した。僕はこの頃から鉄ヲタだったので、彦根への電車の時刻は僕が時刻表をみて調べた。僕が家族(僕以外に4人、僕は4人兄弟)を率いる
ことになったのである。自宅最寄りの津久野から阪和線と環状線を乗り継ぎ、大阪から10:17発の快速・米原行きに乗車。車両は113系だ。

大阪から彦根まではかなり時間が掛かる為か、途中で母が「特急とかないの?あんたに任せて損した」というような事を言い出した。
答えは「ない」という事になるが、この当時、僕は小学4年生・・・上手く反論する能力はまだ備えてなかったのである。
この当時の東海道本線の大阪→米原は、まだ新快速が米原まで到達してなかったのである。

彦根に到着した後はタクシーで予約していた宿へ。タクシーには6人も乗っていたことになるが・・・。
で、宿は今で言うと「かんぽの宿」だったのではないだろうか。何かそのように記憶している。琵琶湖の畔に建ち、近くに砂浜が広がっていた。

宿に到着した後は、兄や姉、妹と一緒に琵琶湖で泳いだ。ここは遠浅だったと記憶している。因みにこの砂浜は、あの鳥人間コンテストの会場ではないかと思われる。
晩飯は部屋(和室)で食べた。カレーやマカロニサラダの他に人生の初のカツ丼などを大食いしたと記憶している。特にカツ丼が凄く美味かったと記憶している。

翌日は朝から彦根港から高速船に乗って竹生島へ。船の名前は「オーミマリン」だったか。竹生島の辺りは水が綺麗で、かなり深いところまで透き通っていた。
竹生島では中日ドラゴンズの帽子を被った少年とよく目が合っていた。この時、僕は阪神タイガースの帽子を被っていたからだと思う。

彦根に戻った後は行きと同じく113系に乗って、もう自宅方面へ。探検としてグリーン車に行ってみれば客は2人しか居なかった。
この当時の京阪神の快速にはグリーンが連結されていたのである。大阪には夕方の5時頃に到着した。

④に続く。


 

子供の頃に経験した乗り鉄 ② 

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時58分18秒
返信・引用
  ①からの続き

●1978年(昭和53年)8月前半。父と兄・僕の3人で1泊2日で和歌山県の友ヶ島へ。
これは昨年と同じく、父が勤務する職場の慰安旅行みたいなものである。
まず自宅最寄りのバス停から南海バスで堺東へ行き、そこから南海高野線の各停に乗って難波へ。
そして・・・難波でみんなと合流し、特急四国号で和歌山市へ。この四国号は一部の車両に指定席が連結されていたが、
何と僕たち一行が座った席は指定席にも関わらずロングシートだったのである。記憶によると隣の車両は一般席で
指定席の車両との間にはビニール製の指定席と書かれ幕が掲げられていた。
和歌山市に到着した後は、加太線に乗り換えて加太へ。この電車は凄く混んでいた。

加太に到着した後は徒歩で港まで行き、客船に乗って友ヶ島へ。生まれて初めての船だった為か、僕は凄く浮かれていたと記憶している。

友ヶ島に到着した後は、民宿で少し休憩し、その後、子供たちで海水浴をして楽しんだ。友ヶ島から淡路島が良くみえていた。
夜は大人たちは宴会をしていたが、僕たち子供は花火をして楽しんだ。全く関係のない他のグループの子供たちと一緒に。
因みに宿泊したところは、あれは民宿だったものと思われる。ふすまを開けると隣のグループが居たし。
あと、確か、この民宿の水は井戸水だったと記憶している。何か鉄みたいな変な味がしていたし。
友ヶ島は小さな島である。水の確保は容易ではなかったものと思われる。

帰りは和歌山市から急行に乗車した。僕たちだけ堺に住んでいるので羽衣で降りた。

●1978年(昭和53年)8月。母の帰省で2年振りに石川県の金沢の方へ。父は来ていない。
行きは大阪駅を11:00頃に発車する雷鳥の指定席に乗車。これは大阪11:05発の雷鳥4号であると思うが、記憶が曖昧である。
この当時の雷鳥の485系は、まだリクライニングがなかったと記憶しているので、この車両、要は485系の200番台以降ではなかった・・・?。
途中、北陸本線内の駅でキハ58系統のディーゼルカーと出会ったが、あれは「急行越後」だったのかも知れない。窓が全開だったので、
非冷房だったのか。そして車内を見れば僕と同年代の子供の姿が。
一方、こちらは冷房付きの485系であり、当時、僕はまだ小学3年であったが、優越感を覚えた。
他、福井県内で青とベージュ系統のツートンカラーの電車を見掛けたが、あれは既に廃止された福井鉄道の南越線だったのかも知れない。
帰りは雷鳥の自由席に乗車した。多分、指定席が取れなかったものと思われる。

この時は、ついでに富山県まで行き、黒部峡谷鉄道に乗車した。
まず金沢から富山へは遠い親戚の人たちと一緒に車2台で富山へ。何故、金沢から国鉄に乗らなかったのか?・・・その辺りは謎である。
富山に到着した後は、富山地方鉄道に乗車して宇奈月温泉へ。この頃の地鉄は現在も残る地鉄色の他に青色に白いラインが入ったかなり古い電車が走っていたし、
宇奈月温泉へ行く途中に名鉄からの乗り入れであるキハ8000を見掛けた。

宇奈月温泉に到着した後は、黒部峡谷鉄道に乗車して鐘釣へ。僕はトロッコ風の客車をみてウキウキワクワクしていた。
鐘釣に到着した後は、みんなで鱒の寿司を食い(人生初の鱒の寿司)、水遊びをした。鐘釣には川に天然の露天風呂があり、万年雪がある。
この後、再び黒部峡谷鉄道に乗車して終点の欅平へ。欅平ではみんなで写真を撮り、早めに折り返した。
帰りの列車はデラックス車だった。これは一般車が満席だったからである。行きは天気が良かったが、帰りは雨か降っていた。

富山に戻ったあと、みんなで駅前の店で晩飯を食った。僕はグラタンの下にご飯が入った奴を食ったが、これはドリアだったものと思われる。
ドリアというのは、もう1978年には既にこの世に存在していたことになる。これはめちゃ美味かったと記憶している。
晩飯を食ったあと、車で金沢へ。

③に続く。
 

子供の頃に経験した乗り鉄 ①

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時50分34秒
返信・引用
  学校の遠足とか修学旅行について書いているが、ちょっと話題を変えて僕が子供の頃に経験した乗り鉄について触れてみたいと思う。
子供とは一体何才までを指すのか?というと、その基準は世間的には少し曖昧なので、ここでは小学校を卒業するまで・・・としておこう。
※僕が小学校を卒業したのは1982年(昭和57年)3月。

●まず、僕は生まれて間もない1971年(昭和46年)から1976年(昭和51年)の春に掛けて名古屋市に住んでいたので、年に2回くらいは名古屋~新大阪で
新幹線に乗車していた。これは乗り鉄というよりも、親の帰省である。因みに僕が生まれたのは大阪の門真市。大体、3才の後半くらいから記憶がある。
帰省はいつも「こだま」だったと記憶しているが、僕の脳内に夜中、米原駅を通過した映像が残っているので、あれは「ひかり」だったものと思われる。
他、当時、米原に朱色とグレーの車両が停車していたが、あれはDD50だったのかも知れない。
ただ、新幹線に乗ったのは母と帰省する時のみ、父と一緒に帰省する時は、いつも職場の車で帰省していた。車種はトヨタのコロナ。

※名古屋市電の映像と地下鉄が新瑞橋(あらたまばし)まで開業した当時の何らかの映像が僕の脳内に残っている。

僕の一家は決して裕福ではなかったが、帰省はいつも新幹線を利用していた。で、何故、近鉄や在来線を利用しなかったのか?と思い、
何年か前にそれについて母親に突っ込みを入れたところ、どうやら新幹線しか知らなかったようだ。

・・・という訳で僕は1976年(昭和51年)から大阪の堺に住んでいるが、ほぼ同じころ、母方の祖父母が大阪市から石川県の金沢と松任の間辺りに引っ越した。
※母方の祖母は昔からの大阪人であるが、祖父の出身は石川県。
※ついでに父方の祖父の出身は岐阜県南部、祖母の出身は兵庫県の丹波。

●で・・・1976年(昭和51年)の8月に祖父母が住む金沢へ行く機会に恵まれた。これは母の帰省である。
行きは大阪を10:51に発車する臨時急行「加賀」に乗車。車両は14系座席車。当時、僕は小学1年だったので、「14系」という形式自体を理解してなかったが、
座席の形状と車体の色だけは憶えていた。機関車は赤系だったのでEE81だったものと思われる。
この臨時急行「加賀」は大阪→京都では内側線を走るブルーライナー新快速に抜かれ、湖西線内では西大津と安曇川に停車。金沢まで約5時間を要していた。
帰りは雷鳥に乗車した。あれは自由席だったものと思われる。

●1977年(昭和52年)の8月前半。僕は父と2人で1泊2日で伊勢の方に行った。これは父が勤務していた職場の慰安旅行のようなものであり、
僕も一緒に連れて行ってもらったのである。行きも帰りも近鉄特急に乗車。これが僕の人生初の近鉄特急という事になる。
車両は・・・あれは12000系か12200系だったものと思われる。

伊勢といっても広いが、この時は鳥羽からタクシーで何分か走ったところにある旅館に泊まった。この旅館は入り江の奥の方に建っていたと記憶している。
慰安旅行なので夜は宴会になっていたんだろう、僕は他の子供たちと一緒にトランプで遊んでいた。
因みに、これは僕にとって人生初の旅館・ホテルということになる。

次の日の朝早く、父の職場のおじさんと一緒にボートで釣りに出かけた。初めて乗ったボートに興奮した。
昼過ぎに鳥羽から近鉄特急に乗車。鶴橋には夕方頃に到着した。

②に続く。
 

小学6年の時に行った林間学校

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時41分59秒
返信・引用
  僕が通っていた小学校(大阪府堺市)では、修学旅行の他に林間学校?と呼ばれる1泊2日の行事がありました。
行き先は大阪府の北部にある能勢。時期は1981年(昭和56年)8月の半ばを過ぎた頃だったと記憶しています。
※確かこの行事は林間学校と呼ばれていたと記憶しています。

●1日目・・・昼頃に体操服で登校し、貸切バスで大阪の能勢へ。夏休みの最中でしたが、みんな来てました。
小学6年にもなればプールの授業をさぼったりと「さぼり癖」が出たりするのですが、
キャンプということもあり、みんなワクワクしていたものと思われます。

目的地は完全に山の中、キャンプ場でした。到着後、何をしたのか?・・・はあまり憶えていないのですが、
確か飯盒炊爨とカレーの煮炊きの準備だったと記憶しています。で・・・男子が飯盒炊爨、女子がカレーの煮炊きだったような・・・
飯盒炊爨なので勿論あのアルミ製の楕円形の奴とたき火でやります。ただ、素人ばかりなのキャンプ場のスタッフの指導の下で行われました。
指導員は当時25才くらいやったんかなぁ、雰囲気の良いお兄さんとお姉さん、米の研ぎ方から飯盒に入れる水の量、火力まで一から丁寧に教えてくれました。
指導の内容は「水の量は手首のこの辺りまでが基本」「火加減はこれくらい、これより火が強いと底が抜ける」
「吹きこぼれる水がなくなれば、このタイミングで火から下ろし、逆さにして蒸らす」などなど。
※この丁寧な指導が翌年、中学の時に行った宿泊訓練で大いに役に立った。

で・・・その飯盒炊爨で炊いた米は驚くくらい完璧なモノ!。指導員が居たから当然なんだろうが、あれはほんまに完璧やったと記憶している。
カレーの方はどのような味だったか、もう憶えていないが、ま、総じて美味かったと記憶している。

カレーを美味しく頂いた後はキャンプファイヤーをした。クラス毎で何か出し物をし、僕たちのクラスはポキポキ踊りをした。
ポキポキ踊りは、「♪ららった右手、ららった右手、ららった右手をくるくるポン!ポキポキ踊りだみんなで踊ろう、ららったらんらんらん、うっ!」という歌の奴、
これは知らない人が多いと思うので興味がある人は調べて下さい。

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追記・・・ポキポキ踊りをYouTubeで探したらすぐに見付かった↓
https://www.youtube.com/watch?v=NFn79_FS20A
最近はポキポキダンスと呼ばれているようで、歌詞の最後がちょっと違うな。

今、僕はハゲ頭のおっさんですが、僕みたいなハゲがこの踊りをやったら想像するだけで面白い。

♪ららったハゲ頭、ららったハゲ頭、ららったハゲー頭をくるくるボン!?

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その後、テントで就寝。テントはあの一般的な組み立て式の奴ではなくて、備え付けの大型の奴であり、山小屋とテントを足して割ったような形状でした。
定員は8人くらい、男子はクラスに24人ほど居たので3班に分かれて寝たと記憶している。寝具は寝袋だった。

●2日目・・・朝起きた後は朝ごはんを食ったと思うが、何を食ったかは憶えていない。菓子パンだっと記憶しているが、記憶が曖昧である。
2日目は蒲鉾の板で焼き板を作った。焼き板とは・・・能勢キャンプの想い出の品づくりというのか。

この後はもう貸切バスで帰ったはず。
この林間学校の能勢キャンプは初めてのモノが多かったので、みんな凄く盛り上がっていた。(おわり)
 

修学旅行の想い出 小学校編 2日目

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時38分48秒
返信・引用
  修学旅行の想い出。前回は1日目を書いたので、こらちでは2日目を書いていきましょう。

●2日目・・・朝、起床した後は、みんなで朝ごはん!。
献立は憶えていないですが、旅館なので御飯と味噌汁、たまご、海苔、佃煮であったものと思われます。

朝ごはんを食った後は鳥羽へ。利用した交通機関は貸切のバスではなく一般的な定期列車。
旅館から徒歩で旅館最寄りの二見浦駅へ。そこから鳥羽行きのディーゼルカーに乗り込みました。
型式は憶えてません・・・色は、こちらも憶えてません。ツートンの国鉄色だったのか、それともタラコだったのか。
あと、二見の夫婦岩をみた記憶がありますが、こちらは1日目に観たのか、それとも2日目に観たのか、記憶の中ではかなり曖昧です。

鳥羽に到着した後は、ミキモトの真珠島を訪問し、あと遊覧船に乗った記憶があるのですが、ちょっと曖昧です。
真珠島は良く憶えていますが、遊覧船は・・・?。他の旅とごちゃ混ぜになっている。

鳥羽での観光を終えた後は、鳥羽駅から行きと同じくキハ58とキハ65の団体臨時列車に乗車して地元方面へ。
もちろん、経路は行きと同じく参宮線・紀勢本線・関西本線・阪和貨物線・阪和線です。
行きの列車ではみんなウキウキワクワク状態でしたが、帰りの列車はやはりみんな疲れていたのかシーンとしていました。
津久野に到着後、駅の近くで解散。駅には保護者が迎えにきていたと記憶しています。

次の日は登校日でしたが、何とクラスの半数以上が休んでいました。疲れて熱が出た生徒が多かったようです。
そのおかけで給食食い放題!、牛乳飲み放題(5本は飲んだ)!、朝から下校時までずっと自習でした。

修学旅行の想い出 小学校編 おわり。
 

修学旅行の想い出 小学校編 1日目

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時37分4秒
返信・引用
  僕は大阪の堺に住んでいるので小学校の修学旅行は「お伊勢さん」でした。時期は昭和56年、季節は5月の中頃だったか。
記憶をもとに当時を振り返ってみたいと思います。今の時代、堺市の公立の小学校の修学旅行は広島方面へ
行くことが多いようですが、僕の年代は「お伊勢さん」へ行くのが一般的でした。
※修学旅行は1泊2日、文が長いので1日目と2日目にわけて書きます。

●1日目・・・朝早くに阪和線の津久野駅に集合し、国鉄の団体臨時列車に乗車して参宮線の伊勢市駅へ。
隣の小学校は近鉄のあの二階建ての「あおぞら号」で行ったようですが、僕の学校は国鉄を利用しました。
列車はキハ58とキハ65の組み合わせ、隣のクラスはややくたびれたキハ58でしたが、僕のクラスは新しいキハ65でした。
次の上野芝で他の修学旅行生が乗車、列車は杉本町から今は廃止された阪和貨物線に入り、久宝寺の辺りから関西本線へ。奈良や亀山、多紀を経て一路、伊勢市へ。
車内ではみんなウキウキワクワク状態!、担任の女先生もいつもよりも華がありルージュが鮮やかでした。

伊勢市に到着したあとは、バスで内宮とか外宮を観光しました。昼メシを食ったと思いますが、内容は憶えていないです。
内宮・外宮の観光を終えた後は・・・もう旅館に直行したと記憶しています。旅館の場所は二見、旅館の名前は確か松坂屋休暇苑やったかな?

旅館に到着した後はクラス毎に順番に風呂に入りました。ただ、200名以上の団体さんゆえに1クラスあたりの入浴時間が限られていたのか
体を洗う時間などは与えられず、いきなり湯舟に入れられたと記憶しています。あれは衛生的に悪かったと思います。

風呂から出たあとは楽しみにしていた晩ごはん!。献立はサザエ・ウインナー・マカロニと超豪華な内容!。美味しく頂きました。
晩メシを食ったあとは買い物タイム、旅館の周りに土産物の店が沢山ありました。何を買ったのかは憶えていないです。

買い物を終えたあとは就寝。当たり前のように枕投げをし、当たり前のように先生がやってきて雷を落としました。先生も参戦すればよかったのに・・・
あと、寝る時ですが布団は2人で1枚でした。この年代ならホモはいないので善しとされていたのでしょう。寝巻は体操服でした。

2日目に続く    
 

学校の遠足について 小学校編

 投稿者:鉄ヲタ研究会 会長  投稿日:2017年 4月24日(月)20時34分9秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは。鉄ヲタ研究会の会長です。
今日はネタが枯渇気味なので学校の遠足について触れてみたいと思います。
皆さんは学生の頃・・・特に小学生から中学生の頃に何度か学校の遠足に参加したと思います。
で、行き先とか覚えてますか?。僕はまぁ多少なりに憶えているので当時の記憶を掘り起こしてみたいと思います。
因みに僕は大阪府堺市の市立の小・中学校に通っていました。市立・・・んーまぁ公立といえばいいのか。

小学1年(昭和51年)・・・春→憶えていない 秋→南海電車に乗って河内長野・三日市の方にある栗山 冬→泉北ニュータウンの方だったような?交通機関は憶えていない。

小学2年(昭和52年)・・・春→貸切バスで大阪城と弁天町の交通科学館 秋→貸切バスで確か関西サイクルスポーツセンターだったか? 冬→貸切バスで河内長野の方の寺だったか?

小学3年(昭和53年)・・・春→貸切バスで和歌山の雑賀崎の方 秋→憶えていない 冬→憶えていない

小学4年(昭和54年)・・・春→貸切バスで奈良公園 秋→貸切バスで和歌山の玉川峡 冬→憶えていない

小学5年(昭和55年)・・・春→船と貸切バスで六甲山 秋→貸切バスで大阪・奈良の県境にある二上山登山・どんづる峯 冬→貸切バスで金剛山(登山)

小学6年(昭和56年)・・・春→伊勢方面修学旅行 夏→8月に貸切バスで能勢のキャンプ場(1泊)秋→貸切バスで和歌山の紀伊風土記の丘 冬→貸切バスで金剛山(登山)

☆小学5年(昭和55年)の春→船と貸切バスで六甲山は、学校から貸切バスで弁天埠頭まで行き、そこから客船で神戸港へ。
この客船は他のお客が乗っていたので定期船でした。。ただ、どこの会社か憶えていないです。弁天埠頭発、神戸経由の高松行きだったのか。
神戸港に到着した後は、再びバスに乗り、あれは六甲牧場やったんかな。結構、濃い内容だったと記憶している。その後、貸切バスで帰った。
伊勢の修学旅行と能勢のキャンプについては、また日をあらためて書いていきたいと思います。
 

(無題)

 投稿者:ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた  投稿日:2017年 4月23日(日)23時39分55秒
返信・引用
  テスト  

(無題)

 投稿者:ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた  投稿日:2017年 4月23日(日)22時28分43秒
返信・引用
  うむ(笑)日曜日ももうすぐ終わりな訳なんだけれども、まぁあれだ、流石にこれだけボロクソに書いていると恐らくこの掲示板のハゲはもう書く事はないだろう(笑)

まあれだ、ところでいよいよ今度の土曜からいよいよGWということになるわけなんだけれどもまぁあれだ、GWということで恐らくこの掲示板のハゲはまあれだ、GWということで恐らく調子に乗って書き込むだろうがGWということに関わらずやはり妨害すべきかもね(笑)
 

Re: 子供の頃に経験した乗り鉄 ③

 投稿者:ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えませ  投稿日:2017年 4月23日(日)20時14分7秒
返信・引用
  > No.339[元記事へ]

ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた様へのお便りです。

> 鉄ヲタ研究会 会長様へのお便りです。
>
> > 子供の頃に経験した乗り鉄 ②では1980年(昭和55年)の夏休みの終わり頃までの事を書いたが、ここでは、それ以降の事を書きたいと思う。
> >  子供とは一体何才までを指すのか?というと、その基準は世間的には少し曖昧なので、ここでは小学校を卒業するまで・・・としておこう。
> > ※僕が小学校を卒業したのは1982年(昭和57年)3月。
> >
> > ●1980年(昭和55年)の秋頃。同級生のM君と一緒に和歌山駅へ。
> >  僕は小学4年頃になれば同級生のM君と何度か大阪駅へ出向き、良くブルートレインなどを撮っていたが、
> > ある日、M君は大阪駅だけでは飽きてきたのか、和歌山駅へ行こうと言いだした。もちろん、日帰りだ。
> > ※この当時、クラスに「にわか鉄ヲタ」が増殖し、一度だけ5人くらいて大阪駅に行ったことがある。
> >   そして、その中心人物が僕とM君だった。
> > ※↑で書いたN君は写真には興味がなく、大阪駅まで一緒に撮りに行くことはなかった。
> >
> > この時は自宅から自転車で鳳駅まで行き、113系の快速に乗車した。この当時の阪和線の快速は6両編成だったと記憶している。
> >  和歌山では主に「くろしお」を撮影。他、紀勢本線の旧型の客車列車を見掛けた。多分、これは新宮行きだったものと思われる。
> > で・・・この新宮行きが発車する時、車内に居たガキ共(中学生くらい)が我々に対して何かを投げてきた。
> >  何?と思い、良くみればそれは「ぼんち揚げ」だった。これはイタズラ、悪く言えば喧嘩を売っていた・・・イジメである。
> >
> >  帰りも行きと同じく113系の快速に乗車した。この当時の快速は・・・113系なので最高速度は100キロであるが、
> >  今よりも活き活きとしたノリで走っていたと記憶しいる。
> >  車内には通路を挟んだ隣のボックスに犬を連れたおばはんが2人が座っていた。もちろん犬はケースに入れていた。
> > ただ、その犬、キャンキャン吠えて五月蠅かったのだ・・・。で、世間知らずの僕がM君に対して「五月蠅いな・・・迷惑やな」と大きな声で言うと、
> >  何とそれを聞いたオバハンが「あたしらは、別に金払ってるんよ!」と急にキレだしたのである!。要はヒステリーだ。
> > その勢いに、僕とM君は位負け・・・しゅんとしたのは言うまでもない。
> >  僕は、この当時から「迷惑」という言葉と、その意味を知っていたのだ。
> >
> > ●1981年(昭和56年)1月。同級生のN君と一緒に和歌山駅の周辺へ。
> > ある日、同級生のN君が阪和線・紀伊中ノ島駅の真下にある旧ホームを見学しに行こうと言いだした。
> >  紀伊中ノ島駅の旧ホームとは・・・昔、和歌山線が現・和歌山市駅に直通していた頃の遺構であり、線路は剥がされていたものの
> > 当時のホームが阪和線・紀伊中ノ島駅の真下に辺りに残っていたのである。
> > ※このホームは今でも残っていると思う。
> > ※N君は当時、小学5年であったが、鉄ヲタの兄の影響なのか、このようなモノに興味があったのである。
> >
> >  行きは・・・まず自転車で津久野駅へ行き、阪和線の各停と快速を乗り継いで和歌山へ。さらに紀勢本線に乗り換えて紀和へ。
> >  紀和に到着した後は徒歩で件の紀伊中ノ島駅へ。そして旧ホームを見学した。
> > この時、N君が「昔、ここを東京行きの列車が走ってたんやで」と説明してくれたと記憶している。
> >
> > この後、田井ノ瀬方面へ歩いた。途中に和歌山線の車庫があり、そこにはディーゼルカーが停車していた。
> > で・・・車両に天ワカと表記されていた為か、N君がいきなり「天ワカってどういう意味か知ってるか?」と言い出した。
> >  僕は当時からコロタンやケイブンシャの鉄道関連の本を愛読していたし、時刻表を見ていたので「天王寺鉄道管理局の和歌山・・・やろ」と
> > 答えると、N君は、こいつは知ってる!と思ったのか、「大ムコは?」とか「金サワは?」とか次から次へと問題を出してきた。
> >  僕は大ムコや大ミハ、盛アオや南シナ、門ハイなどメジャーなものは答える事が出来たが、さすがにマイナーなものは知らなかった・・・。
> > でもN君は知っていたのだ。あと、N君はこの当時から特牛や宇出津、冷水浦などの難読駅名も知っていた。
> >
> > この後、N君は田井ノ瀬駅まで行こうと言ったが、僕はしんどかったのか拒否した。・・・という訳で和歌山駅へ。ここから快速に乗って家に帰った。
> > N君と鉄道関連で一緒に行動したのは、これが最後。ただ、小学校を卒業するまで良くN君の家に遊びに行っていた。
> >
> > ●1981年(昭和56年)2月。同級生のM君と米原へ。
> > ある日、鉄道写真好きのM君が「加越としらさぎを撮りに米原まで行こう」と言い出した。因みに、当時、僕は↑のN君の時もそうであるが、誘われて
> >  ばかりであり、自ら先頭に立って誘う事はあまりなかった。振り返れば、僕は丁度、この頃からお人好しになってきたような気がする。
> > あと、↑の和歌山の時と同じく交通費はお年玉だったと記憶している。
> > ※このお人好しの性格が、その後、自分自身を苦しめることに・・・特に10代半ばの頃。お人好しは「ぱしり・いじめ」を誘発するのだ。
> >
> >  朝、早くに津久野駅でM君と落ちあい、窓口で米原までのキップを購入。途中の駅で分割すれば、運賃が安くなったのかも知れないが、
> > この当時はこのような知恵がなかった。
> >
> >  阪和線と環状線を乗り継いで大阪へ。ここでM君はブルートレインなどを撮影していたが、僕はあまり撮ってなかった。理由はフィルムの枚数が
> > 少なかったからである。あと、冬場の朝早い時間帯は暗いのでフラッシュがないと撮れなかったような・・・
> >  と言うのは、僕が持っていたカメラはフラッシュがなかったのだ。周りが暗い時にシャッターを押すと「のぞき窓」のところにエラーですよ、
> > という合図なのか、黄色の幕で出ていたと記憶している。
> >  因みにM君のカメラはポケットカメラであり、フラッシュが内臓されていた。
> >
> >  大阪から米原へは、まず京都まで大阪を8:10頃に発車する近江今津行きの臨時快速に乗車した。この臨時快速は117系だった。
> >  米原まで行くのに、何故、これに乗ったのか?・・・それはこの電車が京都方面の先発だったからだと記憶しいる。
> >  京都から先は、あまり憶えていないが、113系のいつもの電車に乗車したものと思われる。
> >
> >  米原に到着すると銀世界で驚いた。記憶によると・・・お目当ての「加越」は走っていたが、もう一つのお目当てである「しらさぎ」を
> > 見掛ける事はなかった。雪で大幅に遅れていたのか。この辺りの記憶はかなり曖昧である。実際、この時に撮った写真に「しらさぎ」がない。
> >
> >  他、米原駅で旧型客車を見掛けた。これは米原発・長岡行きの長距離鈍行であり、手元にあるこのほぼ1年後に発行された
> > 公社大型1982年1月号の時刻表によると列車番号は523、運行時刻は米原10:33→長岡23:23となっている。
> > ホームに居たおっさんが、立ち食いのうどんの店で「うどん・そば?」を買い、車内で食うのか、容器ごとそのまま523列車の
> > 車内に入って行った光景が未だ脳裏に焼き付いている。
> >
> > さらに米原駅でヘッドマークを掲げた475系統が停車していた。マークは「くずりゅう」ではなく、空欄だったと記憶している。
> > これは米原12:39発の富山行き(福井から快速)だったのかも知れない。そしてそのヘッドマークであるが、良く見ればピンがあり、それを外すと
> > 本をめくるように「立山」や「ゆのくに」「くずりゅう」と自由に変えられる構造であることに気付いた。
> > 僕とM君はステップに乗り、そのピンを外して遊んだのは言うまでもない。ただ、この遊びも今の時代にこのようなことをすればもう大変である。
> > 今では補導されて、親(保護者)が引き取りに行くパターンになるのかな?と思う。この時代は、このような事にはあまり五月蠅くなかったのかも知れない。
> >
> > この時は、もう昼過ぎに113系に乗って帰ったものと思われる。
> >
> > ④に続く。
>
> そういう悪いことをしてるからハゲるハゲは因果毛報

その通り
 

Re: 子供の頃に経験した乗り鉄 ③

 投稿者:ハゲはとても会話程度の日本語が出来るとは思えません。何が言いた  投稿日:2017年 4月23日(日)19時44分54秒
返信・引用
  鉄ヲタ研究会 会長様へのお便りです。

> 子供の頃に経験した乗り鉄 ②では1980年(昭和55年)の夏休みの終わり頃までの事を書いたが、ここでは、それ以降の事を書きたいと思う。
>  子供とは一体何才までを指すのか?というと、その基準は世間的には少し曖昧なので、ここでは小学校を卒業するまで・・・としておこう。
> ※僕が小学校を卒業したのは1982年(昭和57年)3月。
>
> ●1980年(昭和55年)の秋頃。同級生のM君と一緒に和歌山駅へ。
>  僕は小学4年頃になれば同級生のM君と何度か大阪駅へ出向き、良くブルートレインなどを撮っていたが、
> ある日、M君は大阪駅だけでは飽きてきたのか、和歌山駅へ行こうと言いだした。もちろん、日帰りだ。
> ※この当時、クラスに「にわか鉄ヲタ」が増殖し、一度だけ5人くらいて大阪駅に行ったことがある。
>   そして、その中心人物が僕とM君だった。
> ※↑で書いたN君は写真には興味がなく、大阪駅まで一緒に撮りに行くことはなかった。
>
> この時は自宅から自転車で鳳駅まで行き、113系の快速に乗車した。この当時の阪和線の快速は6両編成だったと記憶している。
>  和歌山では主に「くろしお」を撮影。他、紀勢本線の旧型の客車列車を見掛けた。多分、これは新宮行きだったものと思われる。
> で・・・この新宮行きが発車する時、車内に居たガキ共(中学生くらい)が我々に対して何かを投げてきた。
>  何?と思い、良くみればそれは「ぼんち揚げ」だった。これはイタズラ、悪く言えば喧嘩を売っていた・・・イジメである。
>
>  帰りも行きと同じく113系の快速に乗車した。この当時の快速は・・・113系なので最高速度は100キロであるが、
>  今よりも活き活きとしたノリで走っていたと記憶しいる。
>  車内には通路を挟んだ隣のボックスに犬を連れたおばはんが2人が座っていた。もちろん犬はケースに入れていた。
> ただ、その犬、キャンキャン吠えて五月蠅かったのだ・・・。で、世間知らずの僕がM君に対して「五月蠅いな・・・迷惑やな」と大きな声で言うと、
>  何とそれを聞いたオバハンが「あたしらは、別に金払ってるんよ!」と急にキレだしたのである!。要はヒステリーだ。
> その勢いに、僕とM君は位負け・・・しゅんとしたのは言うまでもない。
>  僕は、この当時から「迷惑」という言葉と、その意味を知っていたのだ。
>
> ●1981年(昭和56年)1月。同級生のN君と一緒に和歌山駅の周辺へ。
> ある日、同級生のN君が阪和線・紀伊中ノ島駅の真下にある旧ホームを見学しに行こうと言いだした。
>  紀伊中ノ島駅の旧ホームとは・・・昔、和歌山線が現・和歌山市駅に直通していた頃の遺構であり、線路は剥がされていたものの
> 当時のホームが阪和線・紀伊中ノ島駅の真下に辺りに残っていたのである。
> ※このホームは今でも残っていると思う。
> ※N君は当時、小学5年であったが、鉄ヲタの兄の影響なのか、このようなモノに興味があったのである。
>
>  行きは・・・まず自転車で津久野駅へ行き、阪和線の各停と快速を乗り継いで和歌山へ。さらに紀勢本線に乗り換えて紀和へ。
>  紀和に到着した後は徒歩で件の紀伊中ノ島駅へ。そして旧ホームを見学した。
> この時、N君が「昔、ここを東京行きの列車が走ってたんやで」と説明してくれたと記憶している。
>
> この後、田井ノ瀬方面へ歩いた。途中に和歌山線の車庫があり、そこにはディーゼルカーが停車していた。
> で・・・車両に天ワカと表記されていた為か、N君がいきなり「天ワカってどういう意味か知ってるか?」と言い出した。
>  僕は当時からコロタンやケイブンシャの鉄道関連の本を愛読していたし、時刻表を見ていたので「天王寺鉄道管理局の和歌山・・・やろ」と
> 答えると、N君は、こいつは知ってる!と思ったのか、「大ムコは?」とか「金サワは?」とか次から次へと問題を出してきた。
>  僕は大ムコや大ミハ、盛アオや南シナ、門ハイなどメジャーなものは答える事が出来たが、さすがにマイナーなものは知らなかった・・・。
> でもN君は知っていたのだ。あと、N君はこの当時から特牛や宇出津、冷水浦などの難読駅名も知っていた。
>
> この後、N君は田井ノ瀬駅まで行こうと言ったが、僕はしんどかったのか拒否した。・・・という訳で和歌山駅へ。ここから快速に乗って家に帰った。
> N君と鉄道関連で一緒に行動したのは、これが最後。ただ、小学校を卒業するまで良くN君の家に遊びに行っていた。
>
> ●1981年(昭和56年)2月。同級生のM君と米原へ。
> ある日、鉄道写真好きのM君が「加越としらさぎを撮りに米原まで行こう」と言い出した。因みに、当時、僕は↑のN君の時もそうであるが、誘われて
>  ばかりであり、自ら先頭に立って誘う事はあまりなかった。振り返れば、僕は丁度、この頃からお人好しになってきたような気がする。
> あと、↑の和歌山の時と同じく交通費はお年玉だったと記憶している。
> ※このお人好しの性格が、その後、自分自身を苦しめることに・・・特に10代半ばの頃。お人好しは「ぱしり・いじめ」を誘発するのだ。
>
>  朝、早くに津久野駅でM君と落ちあい、窓口で米原までのキップを購入。途中の駅で分割すれば、運賃が安くなったのかも知れないが、
> この当時はこのような知恵がなかった。
>
>  阪和線と環状線を乗り継いで大阪へ。ここでM君はブルートレインなどを撮影していたが、僕はあまり撮ってなかった。理由はフィルムの枚数が
> 少なかったからである。あと、冬場の朝早い時間帯は暗いのでフラッシュがないと撮れなかったような・・・
>  と言うのは、僕が持っていたカメラはフラッシュがなかったのだ。周りが暗い時にシャッターを押すと「のぞき窓」のところにエラーですよ、
> という合図なのか、黄色の幕で出ていたと記憶している。
>  因みにM君のカメラはポケットカメラであり、フラッシュが内臓されていた。
>
>  大阪から米原へは、まず京都まで大阪を8:10頃に発車する近江今津行きの臨時快速に乗車した。この臨時快速は117系だった。
>  米原まで行くのに、何故、これに乗ったのか?・・・それはこの電車が京都方面の先発だったからだと記憶しいる。
>  京都から先は、あまり憶えていないが、113系のいつもの電車に乗車したものと思われる。
>
>  米原に到着すると銀世界で驚いた。記憶によると・・・お目当ての「加越」は走っていたが、もう一つのお目当てである「しらさぎ」を
> 見掛ける事はなかった。雪で大幅に遅れていたのか。この辺りの記憶はかなり曖昧である。実際、この時に撮った写真に「しらさぎ」がない。
>
>  他、米原駅で旧型客車を見掛けた。これは米原発・長岡行きの長距離鈍行であり、手元にあるこのほぼ1年後に発行された
> 公社大型1982年1月号の時刻表によると列車番号は523、運行時刻は米原10:33→長岡23:23となっている。
> ホームに居たおっさんが、立ち食いのうどんの店で「うどん・そば?」を買い、車内で食うのか、容器ごとそのまま523列車の
> 車内に入って行った光景が未だ脳裏に焼き付いている。
>
> さらに米原駅でヘッドマークを掲げた475系統が停車していた。マークは「くずりゅう」ではなく、空欄だったと記憶している。
> これは米原12:39発の富山行き(福井から快速)だったのかも知れない。そしてそのヘッドマークであるが、良く見ればピンがあり、それを外すと
> 本をめくるように「立山」や「ゆのくに」「くずりゅう」と自由に変えられる構造であることに気付いた。
> 僕とM君はステップに乗り、そのピンを外して遊んだのは言うまでもない。ただ、この遊びも今の時代にこのようなことをすればもう大変である。
> 今では補導されて、親(保護者)が引き取りに行くパターンになるのかな?と思う。この時代は、このような事にはあまり五月蠅くなかったのかも知れない。
>
> この時は、もう昼過ぎに113系に乗って帰ったものと思われる。
>
> ④に続く。

そういう悪いことをしてるからハゲるハゲは因果毛報
 

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