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「近代文学」の事務所と伝説の喫茶店「ランボー」 その3 発足当時の若き<7人の侍>、全国の同人誌の優れた書き手に発表の場

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月20日(水)13時03分39秒
返信・引用 編集済
  ・中央大学のペンクラブは、ニコライ堂のすぐ横の本校舎の道を
坂下りに下って神田の本通り電車道手前、電機大学横の錦町校舎地下にあった。
この地下はクラブ活動の部室がひしめいており、その一番奥の奥行三間、横二間半ほどの
広さであった。まさに、ドストエフスキーの地下生活者的な空間であった。
天窓からは、歩行者の歩く脚が見えた。

・このペンクラブに所属して、一年から猛烈に小説を書いていたのが、
同期の平井和正であった。三年の時にSF学生作家としてデビュー、
SFの世界で頭角を現していく男である。

・平井は高校生のときから小説、それも相当の大作を書いていた男だ。
学生時代から小太りで、物書きは神経を使うのでやせ型が多いのに、
平井は内臓に疾患を抱えていたようで、俗にいう<太っちょ>であった。
彼は「宇宙塵」というガリ切り印刷のSF同人誌に所属、
SFものを書いていたものだが、早川書房が「月刊SF」を創刊するや、
原稿依頼が来て、書きまくるようになる。

・同じ法学部の一級下には志茂田景樹がいて、時折、法律関係の授業で
一緒になることはあっても、アミューズメント風の作品を
書いているのは知っていたが、当時の記憶はあまりない。
平井は、「純文学分野はもうわれわれの座る席はない。徒弟制度で
繋がった世界が純文学の世界だ。新しい時代の文学の世界を開拓しよう」
常にそう主張して、純文学派の学生と激論になったものである。
「純文学は下手な小説、下手な人生訓をごちゃごちゃ書くのが純文学だ」
これが平井の持論であった。

・合評会には「近代文学」の創刊同人である<七人の侍>の一人
佐々木基一さんが指導者の立場で出席していたが、
平井は「もう純文学の時代ではない」と堂々と自説を主張する始末であった。

・SF作品で原稿料をもらって商業誌に書いている平井にしてみれば、
「純文学は下手な小説、下手な小説の人生訓を読んだところで何になる」
と言いたいところだろう。実際、日頃そううそぶいていたものである。

・この平井の文学思想は、われわれ六十年安保世代より一回り若い
全共闘世代の北方謙三に引き継がれて行く。北方も最初は同人誌に
純文学系統の作品を書いていて苦闘した体験を持っている。
学生時代に新潮に一作掲載されて、純文学系統の作品を苦闘しながら書き続け
ていた。それから十年、PR会社の社員になってから書きおろした
アミューズメント長編小説を出版し一挙にスターに駆け上がることになる。

・どちらも良き編集者に恵まれた好例である。
この学生時代の合評会の場は、伝説の喫茶店「ランボー(のちにミロンガ)」
である。この喫茶店には、「近代文学」の執筆者が編集者と打ち合わせを
する場所に使用され、評論家、作家、詩人がコーヒータイムを持つ場であった。
それで、われわれ学生も、コーヒータイムには、
はやりの名曲喫茶やジャズ喫茶などには行かず、「ランボー」に行ったものである。
「ランボー」には、必ず著名な評論家、詩人、作家がいた。
何せ、この昭林ビルには、「近代文学」「詩誌荒地」「白水社」の編集部・事務所
があったので、喫茶「ランボー」は、文学関係者のたまり場であった。
有名文芸関係者の実物に会える貴重な場であったのである。

http://6928.teacup.com/377612377612/bbs

 
 

「近代文学」の事務所と伝説の喫茶店「ランボー」 その2 発足当時の若き<7人の侍>、全国の同人誌の優れた書き手に発表の場を提供

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月20日(水)06時42分23秒
返信・引用 編集済
  ・発足当時の同人は、彼の有名な<七人の侍>と言われた
荒正人、平野謙、小田切秀雄、本田秋五、山室静、埴谷雄高、佐々木基一。
その後、加藤周一、福永武彦、野間宏、花田清輝、大西巨人、中村真一郎など、
錚々たる論客が参加し、文芸評論界は言うに及ばず、言論界の
中心的な書き手がこぞって執筆するなど、文芸評論黄金時代を出現させることになった。

・「近代文学」が全国的に大きな影響を与えたのは、雑誌の発刊ばかりではなかった。
主要同人の<七人の侍>と言われた文芸評論家たちは、朝日、読売、毎日などの
主要新聞の文芸欄の執筆者として活躍、
同人雑誌評、新刊書評、文学書解説者として常時執筆したほか、
主要文芸誌である「文学界」「群像」「新潮」などで
文芸評論を続々発表、時には互いに激しい論争をして若者たちを魅了した。
かくして若い世代の文芸愛好者を大いに刺激を受け、
かつてなく広い層の文芸愛好者を獲得、文芸評論黄金時代を一般に知らしめたのである。

・しかも、皆若かった。三十代から四十代の精鋭文芸評論家であるから、
執筆もエネルギッシュで、文芸評論の切口も発想も文体も新鮮であった。
発表の場は文芸誌や新聞ばかりではなかった。
総合雑誌の「文芸春秋」「改造」などにも文明論、社会論、政治論、経済論的
評論を発表するなど幅広い執筆であった。婦人向けの雑誌社からさえ
依頼原稿があったほどで、硬派の女性愛読者をも魅了したのであった。

・さらに「近代文学」では全国の同人誌に目を届かせて、
優れた作品の書き手と見るや、掲載作品を依頼して
「近代文学」に掲載することをした。
これで日の目を見て一流作家になった者も十数人にも及んだ。
窮乏していた作家には少ないながらも原稿料まで支払うことをしたが、
大抵の作品は無料掲載であったようだ。
無料でも、今をときめく「近代文学」に作品が載ることは、
地方の同人雑誌作家には法外な喜びであったろう。

・承知の通り、60年安保の年に「近代文学賞」を設けたが、
受賞者の吉本隆明は、安保時代の花形評論家として
新左翼の学生たちから熱狂的な支持を受け、
辻邦生も受賞を機に作家として羽搏くことになる。
要するに、学生たちを中心に熱く支持された文芸評論誌であったのである。

  ・青春の熱き思ひを胸にして読み継がれたり「近代文学」  石塚 邦男

http://6928.teacup.com/377612377612/bbs

 

「近代文学」の事務所と伝説の喫茶店「ランボ-」 その1

 投稿者:根保孝・石塚邦男  投稿日:2019年 3月18日(月)05時16分28秒
返信・引用 編集済
  ・戦後文学を牽引した文学集団「近代文学」の事務所は、神田神保町の昭林ビルのなかにあった。
1階に「ランボ-」という喫茶店があり、このビルには戦後詩を牽引した現代詩の集団「荒地」の事務所もあったし、斬新な企画で出版界に衝撃を与えた「白水社」の編集部もあった。

・このことは、あちこちで書いているので、私の書いているものを読んできた者は承知と思う。
この場では、「近代文学」の組織的なことを少し述べたい。

・私が「近代文学」に人より少し詳しいのはなぜなのか。それは学生同人雑誌に関わっていた昭和三十年代、雑誌を交換していた関係で、「近代文学」も詩人集団「荒地」をも実際に手にして読んでいたからであった。

・全国の主な同人雑誌からは、発刊ごとに部室に送ってきており、部室には図書新聞や週刊読書人の新聞の綴りも置いてあり、部員は授業の合間に部室に寄って、同人雑誌を箱から取り出し自由に読んでいたのである。

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ご批評、ありがとうございます

 投稿者:草原克芳  投稿日:2019年 3月16日(土)00時26分44秒
返信・引用 編集済
  ■根保さん、詳細なご批評ありがとうございます。
拙作『スカンジナビア半島の白夜の太陽』に「低音部のように流れている〈ボイス〉」を
感知していただけたというのは、身に余る光栄です。
自作を饒舌に語ることは、えげつないことだと思われますので、
ここではお礼だけ述べておくほうがいいのかも知れませんが、少しだけ…。

■構成的には、フーガのような小説(上昇志向と下降志向の対位法/女代議士と死刑囚)が書きたかったというのが
当初の狙いでした。
また、蟹田務の内面については、「獄中のエクリチュール」という主題、
つまり、"死刑囚はなぜ手記を書きたがるのか"という疑問を、
いつか物語にしてみたいと思い、永山則夫の著作などに触発されて、
四年程前に書いた作品です。

主題としては、『物狂いの石』、『アスペラトゥス雲』、『地下聖家族』と同様のモチーフで、
自分なりの神性(まがい物の神/本人なりの魂の救済)の捏造、
という"自己幻想"に憑かれたあげく、
結局のところは、「魂の暗い夜」を彷徨ったあげくに自滅してしまう、うらぶれた男のお話です。

(いま、このコメントを書きながら思ったのですが、拙作はすべて、ミノムシが身近な素材で簑を作るように
オブセッションを紡いで外圧に堪えようとしながらも敗北していく物語のようです)


■昨年のコメントと、今回、
再度にわる犀利なご批評、ありがとうございました。
自作が根保さんにどう読まれるのか、いつも気になっております!


カプリチオ掲示板
https://6910.teacup.com/capricciolitera/bbs


 

二十代前半の藤堂志津子も詩を書いていた

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月10日(日)19時48分39秒
返信・引用 編集済
  ・作家、または文芸評論家は、自分の才能を自覚できて作家、文芸評論家になろうとするのか。
自分の才能を自覚して作家になった者は皆無だろう。
出だしは書くのがただ好きで書き始めるものだ。

・幼少期に作文が得意なことと文章作りの才能があることとは、
およそ関係ないことなのである。
語学の才能と作家になる資質も、ほとんど関係ないといっていい。
ただ、言葉に対する感受性、言葉を組み立てる感受性は
作家的資質の必要条件であることは確かだ。

・しかし、自分の才能の資質とその限界は、ある時期から自覚はできる。
作家にはむいていないが、文芸評論なら何とかこなせる、程度の見分けは
ある時期から自覚できるものだ。小林秀雄が好例である。
小林秀雄は、自分の資質が作家にはむいてないことを自覚していたわけではない。
彼は最初から文芸評論家になろうと、自分の路線を決めてかかったのである。

・小林秀雄が小説家としての道を歩んでいたらどうであったか。
おそらく、そこそこに成功はしたろう。作品の質はともかく、
取り巻きの友人、知人の人脈を生かせば、食うことに困らない程度の
作家活動はできたはずだ。

・女流作家として活躍著しい藤堂志津子は北海道の風土が生んだ女流作家である。
彼女が二十代の前半、アイヌ人で初めての太宰治賞作家である鳩沢佐美夫主宰の
「日高文芸」で本名の熊谷の名で詩作品を書いていた。

・鳩沢佐美夫は持病の結核をこじらせて、三十七歳で吐血して亡くなった男だが、
ま、自殺に近い死に方からして、太宰治賞は象徴的であろう。

・女流作家は書き始めは詩作品に手を染める例が多い。
言葉に目覚め、書くことに目覚めて、いたずら書きのように詩に手を染めるのだろう。
しかし、短い詩作品、しかも散文を行替えしただけの散文詩では、
書き手の小説創りの才能を見分けることはできないことが多い。

・物語る能力、才能は、書き手本人も自覚できてないことが多い。
どう書いたらいいか、本能のおもむくまま書いているだけだ。
出来を良くする比較もできないで、闇雲に言葉を拾って書いているのだが、
それは、走るのが好きで走っている子供みたいなものだ。

・走力は他人との比較ができるので、才能のあるなしは自分でも判断できる。
しかし、書き始めは書くのが好きで書き始めるだけだ。
作者の才能を発見するのは、文芸評論家の慧眼、または本能的勘によるところが大きい。
藤堂志津子の才能を発見したのは、高校の教師をしながら、
文芸評論を書いていた札幌のK氏。私の文学の師でもあった人物。

・二十代の藤堂志津子に伝授した言葉はただ一言。
「登場人物の心理を書け、心理を掘り下げろ」だけであった。
それを実行して藤堂志津子は芥川賞作家になった。

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「カプリチオ」47号(東京都)その4 全編を流れる<ドストエフスキーの囁き>様々な小説作法の問題を提起した力作は、草原克芳「スカンジナビア半島の白夜の太陽」その2

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 9日(土)01時32分57秒
返信・引用 編集済
  ・もしも物書きの<言語力>を試そうとするならば、作品の感想を書かせてみることだろう。対象の作品は何でもいい。その書き具合でその者の実力を知ることができるものだ。
さて、私もこの作品批評の文章で常時、<言語力>を試されていることになる。

本文に入る。

・かつて遠藤周作が「沈黙」という作品を書いて、
キリスト教文化の欧米の日本文学愛好読者にもずいぶん読まれたものだった。
遠藤周作はクリスチャンであることを知ると、
欧米の読者はこの作品にさらなる興味を覚えたらしい。

・ドストエフスキーが欧米で読まれたのと
日本の文学愛好者がドストエフスキーを好んで読んだ意味合いは
微妙に異なっていたろう。
草原の「スカンジナビア半島」の作品には、
キリスト教徒の体験のある作者が書いたという意味合いは見受けられない。

・「神は存在するかしないか」という問題を、
一度と言わず真剣に考えたドストエフスキー的体験の欠落した
「スカンジナビア半島」の作品は、同じドストエフスキー的体験でも
色合いが違うのは当然である。しかしその両者の差異は、
作品の出来を上下判断で観るものとは異質の<欧米的視界>と<日本人的視界>
との差異とでもいうものであろう。

・蟹田は独房で組長の命令で香港、上海、韓国の釜山などに出張した折、
現地の女を買いあさったことを思い出す。
50を過ぎた死刑囚でも、男である。
男の妄想は、女の淫らで刺激的な肢体であることにかわりはない。
その辺をわきまえて妄想のエピソードを挟んでいる作者の草原には
死刑囚の心理にはこのような下世話なエピソードが不可欠なことを心得ているのだ。
そして、男にとっての女の存在の意味合いを、
作者がよく理解していることに読者は納得するのである。

・女の描写で卓越しているのは、自傷癖のある魅力的な女佐都美の描写である。
佐都美は我流の詩を書いていて物知りな女だ。
無学であった蟹田には得体の知れない魅力的な女だった。
そんな回想場面はリアルでありながら文学的に描かれていて読ませる。

・蟹田は、収監後、独学で刑法にも通じ、いくら殺人でも
ヤクザ二人を殺したくらいで死刑とは納得できないと抗議し、
濡れ衣だとまで主張して刑務官を困らせたりする。

・ドストエフスキーは、監獄のなかから皇帝陛下に<無実だ>と
手紙を何度も書き送ることをしたが、蟹田はそこまではしていない。
自分の手記を書いて刑務官などに訴え読んで聞かせることをして
周辺を困らせはしたが、上告文章を送りつけたり
嘆願書を書いて出したりする具体的な行動までには走っていない。

・また、弁護士の弁護関係や裁判の判決にいたる微妙な動きは
描写の中ではすべてカットされている。
小説では、判決が下り独房に入れられてからの蟹田の心理が描かれているだけで、
逮捕され、判決に至る裁判の経緯はすっぽり省略されているので、
事件の微妙は読者には判らない。

・しかし、事件から判決にいたる経緯を書くとしたら、
それはまた別の小説になるのであって、
この作品の主軸は、判決後の蟹田の心理の曲折に絞った心理小説なわけで、
事件から判決にいたる前半がカットされているからといって、
この小説が破綻しているわけではない。

・この小説は、あくまでも二人のヤクザを殺して死刑を求刑された
<不条理の囚人>のやり場のない煩悶と恐怖の心理小説なのである。
そして、そこにこそ現代の死刑許容社会の日本の現実を逆照射する意味合いが
この小説にはあることも、忘れてはならないし、作者の頭には
そのことにも及んではいたろう。

・しかし、読者は思うだろう。

  I do not quite follow you
       (どうも、あなたの言ってることは理解できません)

なぜ、草原はこの作品を書いたのか、書いた動機は目的は・・・。
おそらく、読者はそこまで疑問の想いを深めるだろう。
いや、読者によっては深めないかもしれない。
「書きたいから書いたのだろう。それが作家というものだ。深い意味はないはずだ」

・作者はだが、いつも深い意味を作品に盛りたいものなのだ。
書き始めのイメージは軽いものかもしれなくても、
書き進むにつれて、<想い>は重くなり、欲が出てくるものだ。

  If writer dose not be awarded the prize,
     he should write his collection works
      (賞に関係なく、書き手は作品を書きつづけるだろう)

  ・作者とは書きたいものを書くものなり書いて書き終へ区切りとなせる 石塚 邦男


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「カプリチオ」47号(東京都)その3 全編を流れる<ドストエフスキーの囁き>様々な小説作法の問題を提起した力作は、草原克芳「スカンジナビア半島の白夜の太陽」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 7日(木)19時15分56秒
返信・引用 編集済
  ・詳しく感想を書きたかった力作にして問題作であった。
150枚を超える大作の一挙掲載の上、内容がヤクザが罪を犯して死刑判決を受け
死刑に至る心理的葛藤劇に加えて、閉じ込められた人間存在の哲学的な考察が
立体的にはめこまれている内容で批評しがいのある作品であった。

・ところが、文芸批評家も大作に加えて問題作ゆえ手を余したのか、
ほとんど文芸批評欄では話題にならなかったのだが、
実は昨年の同人雑誌では創作部門のベストファイブに位置付けられる
重要な作品と事前にチェックしていた。

・それで、時間ができたらじっくり感想を述べたいと思っていたものであった。
そのうちにごたごたと野暮用が重なり、日が過ぎてしまっていた。
ようやく一区切りの時間がとれたので、
改めてこの問題作の感想を述べることにしたわけである。

・主人公の蟹田は、やくざ者を二人殺した罪に問われて死刑判決を受けた
56歳の男。作品のイントロは死刑執行の日が来て、
刑務官が独房にいる蟹田を迎えに来た場面から始まる。
このイントロからしてドストエフスキー的作品だな、と
読者はちらり思うだろう。そして、さて草原という作者は、
このドストエフスキー体験に似た状況設定をどのように書こうとしているのかと、
読者としての思いはまずそこへ行くはずだ。

・つまり、この雑誌の巻頭に掲載されていた
宮原昭夫と村田沙耶香とのトークのなかで語られていた<ボイス>が
この小説の全編には低音部のように流れているのだが、
それを私は<ドストエフスキーの囁き>とでも形容したいのである。
そして、それこそが作者の意図であり、
この小説の主旋律であることを、相当数の読者は看破するにちがいない。

・主人公の蟹田は結審以来、人生の終点を突きつけられて
鬱屈した獣のように卑屈に怯えて独房生活をしていた。
その不安な精神状態を作者は極力書こうとするのだが、
不思議にもその精神状態が描こうとしながらも筆先が届いていないことを
作者は知りながらも苦闘した筆筋が窺えるのだが、
読者として、そこを読みたいのだと作者に要求しながら
応えてくれないもどかしさを感じつつ読み進むのである。

・死刑囚の心理描写って体験者だからと言って描けるものではないだろう。
なぜなら、表現力がないからだ。
また、表現力があっても、体験していないので、
深層心理まで降りて心底描けないというとっておきの場面であろう。
そこにあえて挑戦したのが、草原という作家のこの作品であった。

・おそらく、作者自身も描けたという実感は持てなかったはずだ。
なぜなら、肝心のこの部分を実際に体験してないからだ。
小説の大抵の場面なら、体験して居なくても描ける自信があるのが
作家というものなのだが、極限状態の描写については、
体験がないと見えない部分があるものだ、と理解しているものである。
おそらく、草原という作者もそのように思っているにちがいない。

・だが、あえてなぜその冒険を冒してまで描こうとしたのか、
それがこの作品の最大の問題点であり、評価の焦点となるところだろう。

  If he do not keep looking for one thing, he cannot fall back upon another.
     (ひとつを見失ったら、他のものに頼ることができない)

・この作品の評価が、死刑囚の心理が描けているかどうか、
その一点に収斂されるとしたら(実際はそうなのだが)
その心理が書けていないなら、この作品の評価はないことになる。

・だが、死刑囚の追い詰められた極限はどういうものか
体験がないから解らないので、評論家として、読者として
書けているかどうかコメントできない・・・
としても、他の部分で、たとえばヤクザの世界の回想部分は書けているなら
その部分で評価があっていい。実際そこは書けていると読者にも理解できる。
それなら、この大作ユニークだし全体として評価できる・・
これが、大方の評論家の一致した見方であったろう。

  If he loses one thing, he can fall back upon another.

・であるが、ここで評論家も高級読者も<小説>とは何か、
<小説という表現方法>とは何か、の課題に直面することになる。
果たして、絵画でもなく彫刻でもなく音楽でもなく、小説という表現方法を選んだ作者は、
<俺の選択は正しかったのか>と、人生を賭けた自分の道に、
疑惑の目を向けないでいられるだろうか?。

・モナリザを描こうとした画家、ゲルニカを描こうとした画家、
運命を作曲した作曲家、新世界を作曲した作曲家、
失楽園を書いた作家、悪霊を書いた作家、
それらの先人たちは<自分が選んだ道>に疑いを持つことがなかったのか>

・草原は、あえて体験したことのない<死刑囚の心理>に
分け入る挑戦をあえて試みたのは、剣を振りかざして風車に挑んだ男の
その挑戦者を気取っただけのことであったのか、なかったのか。
読者の想いは、作者の意図の深淵に果てしなく沈み込んでしまうのである。

・そして、読者の胸裏に反照してくる<創作者>という者の
存在論にまで思いを馳せてしまうのだ。
要するに<見えないもの>を<見ようとした者>の喜劇と悲劇を、
暗に語ろうとした作者の企みにまで思いを沈めてしまうのだ。

・ここまで想いのブラックホールが収斂してしまうと、
感想や批評の言葉を軽々しく口にすることはできず、
沈黙するかスルーパスするかの道しかないことになる。
まさに<ドストエフスキーの囁き>を作品に看破した読者は、
ただ頷いて微笑し「やあやあ・・良く書いたね」と言って
後はページをめくるふりをして、何度もうなずくばかりであるだろう。

・それが、観賞者のan inevitable result (必然の結果)であるだろう。
ゆえに評論家も、言うだろう。
  I said Icould not read it, nor could I
     (私は読めなかったといったが、実際読みもできなかったのだ)

・「俺は、じんせいを、やり直したいのか・・」
天井に描かれたスカンジナビア半島の形をした染みを見上げながら、
蟹田は独房のなかで自問自答する。
トッポイ兄貴分のヤクザの腰巾着をしていた蟹田も、
有り余る刑務所の時間、万巻の書を読む機会に恵まれ、
学者もどきの知識を身につけて<考える>ことに目覚めた末、
思想家としての悩みに目覚める。

・そして、死刑判決の後、独房で<ドストエフスキー的囁き>に
悩まされるようになる。この主旋律を伴ったこの作品を
いかに評価すべきか悩んだ末に、批評家は沈黙で応えたのであろう。
あるいは、浅薄な読者は、感想をのみこんで沈黙せざるを得なかったろう。
                        (続く)

 ・あかときに目覚め虚しき独房の天井の染み眺め上げゐつ  石塚 邦男
 

無名時代の直木賞女流作家、桜木紫乃の作品は・・

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 6日(水)14時41分29秒
返信・引用 編集済
  ・釧路の同人誌「北海文学」で小説を書きだす前の桜木紫乃は、詩を書いていた。
散文を行替えしただけの変哲もないありきたりの詩作品であった。
二十数年前の「北海道詩集」を開くと、
20代後半から30代前半の彼女の詩作品が載っている。
そのうち、釧路の老舗同人誌で有名な「北海文学」に小説を書きだした。

・「北海文学」という同人誌には、原田康子を育てた鳥居省三という名編集長が存在。
鳥居さんは、桜木紫乃の100枚を超える作品を次々「北海文学」に掲載する。
私はその頃、北海道の老舗同人誌「山音文学」で年2回巻末に、
原稿用紙にして50枚前後の同人雑誌評を掲載していた。
年二回の発刊の同人雑誌であるから、そんな膨大な枚数になったのであって、
月刊であるなら、毎回10数枚の量でたりたろう。

・この同人雑誌評は、「山音文学」に送られてくる雑誌と
個人的に私に送られてくる同人誌を対象にしたものであった。
当然、「北海文学」もこの中にあって、桜木紫乃の作品も読んだものである。
粗削りだが、実に面白い作品で、読みながら腹を抱えて笑ったものである。
そして、同人雑誌評の最後に記すベストファイブの作品に、
いつも桜木紫乃の作品名を挙げたものであった。

・しかし、彼女の作品は、純文学畑の評論家の間では
必ずしも注目されなかった。
むしろ無視されることが多かった。
なぜなら、純文学系統の作品から離れた異端の作風であったからである。

・無名当時の桜木紫乃の同人雑誌発表作品の<面白さ>とは
どういう類の面白さなのかと言えば、エッチな話をあっけらかんとした
無邪気な話に置き換える表現のできるところであった。
これができるのは、一種の特別の才能であり、人間性の問題でもあるのである。

・エッチな話をエッチに書くことはちょっとした作家なら誰にでもできる。
だが、エッチな話を無邪気な話、あっけらかんとした話に
置き換えることは誰にでもできることではないのである。
それができるのは、持って生まれた一種の特別の才能と言う以外にはないのである。

・その特異性を私は買った。私は彼女に懸賞小説への挑戦を勧めた。
「<オール読物>の新人賞に応募しました」電話で話した時、
彼女はそう言ったものである。

・「オール読物」で彼女専属の編集者がつき、
彼女の職業作家としての苦悩が始まった。
電話で彼女は「何度も書き直しさせられて・・」と
苦労していることを愚痴っていた。

・同人雑誌評をしている私の仕事は、そこまでの橋渡しである。
そう心得ているので、その後、紫乃さんとの交流はない。
卒業生を送り出した教師の心境は、こういうものだろう。

  ・名を成して旅立つ者を見送りしあとの春日の穏やかに輝る  石塚 邦男



http://6928.teacup.com/377612377612/bbs

 

一読、作者の年齢がばれるような文章は書きたくないもの

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 4日(月)09時21分52秒
返信・引用 編集済
  ・男も女も、まれに年齢不詳の美男美女がいる。実年齢を聞いてウッソウ
信じられないとびっくりすることがある。
文章でもそうだ。年齢不詳の文章を書く怪物みたいな作者がいる。
小説でもそうだ。老成した心境小説を読んで、
この作者何歳だろうと想像して、エッまだ二十代?と驚くことが時にあるし、
若い登場人物の一人称小説を読んで、二十代の作家か、と思ったら、
何とすでに五十代後半だった、なんて騙されることがある。

・しかし、そんな例はほとんどまれで、大抵は年齢相応の文章しか書けないのが
一般作者というものである。
同人雑誌を読んでいると、中年または老年女性作家が、
さもさも若作りの文章を真似て一作ものにする、という作品がまま見受けられる。
だが、ははぁ、この作者、かなり無理して厚化粧の若作りで登壇か、
とバレバレの文章を読ませられるとうんざりする。

・作者の年齢が一読読者に看破される文章は悪文、または下手な文章と言っていい。
もちろん、時代を映す文章の色合いというものはある。
例をあげると、大江健三郎がデビューした頃はやったのは、
<ボク小説>という一人称小説である。

・倉橋由美子が登壇したころ流行したのが<あなた小説>という二人称小説。
このころは三人称小説というのは、若者の間で<ダサい小説>と言われたものであった。

・フランスのヌーベルバーグ世代の小説が流行ると、
やたら人称にこだわる方法意識が流行になった。

・これら若い世代の文体の色合いを、年配作家も真似てみようとしても、
大抵は、文章のところどころ年齢相応の癖が顔を出すため、
うまくこなれた文体を構築できた年配作家は少数にとどまった。

・同人雑誌の年配作家の文章を読むと、
明らかに作者の年齢が見分けられる文章を書いている作品が大半だ。
主人公を若い世代に設定しても、文章で作者の年齢がばれるようでは
出来上がった熟成した作品とは言えない。

・ベテラン作家になると、作者の年齢不詳の巧みな若々しい文体を
応用して作品を仕上げることができるものだ。

・また、若い作者でも、老練な文章を書く者がいて、
はて、この作者の年齢はいかほどなのか判別できかねる者が時にいる。

・若い作者が、年老いた主人公の心境を見事に書き切っている作品に出合うと、
感心してしまうことがあるのだが、
逆に、70、80の年配作家でも、生き生きとした現代青年の心境を
見事に書き切る者もいて、その筆筋の魔手に驚嘆させられることもある。

・要するに、若い役者でも老いた人物を演ずるに似た見事な筆筋を
読んだりすると、思わず唸りたくなるものだ。

・小説でも評論でも随筆でも、一読、作者の年齢がばれるような文章しか書けない物書きは
まだまだ修行がたりないということであろう。

・このようなことを書くと、読者からは「それではお前はどうなのだ」と
言われそうなので、この辺で筆をおさめたい・・。妄言多謝・・。

  ・夢に見る君は昔の若きまま微笑みくれる醒めて寂しも  石塚 邦男

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手書きの文章とパソコン打ちの文体の違い、思考の違い

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 3日(日)22時04分30秒
返信・引用 編集済
  ・最近の若い人の小説の文体は実に巧みになってきている。
それには理由がある。
手書きの作家が皆無になったことによるようだ。

・半面、個性的な文章を書ける作家が激減しているのである。
パソコン画面で打ち込んで書くので、その場で修正、書き直しができる。
文章のリズムを平均化できるためである。
この文明の利器は、ひらめきで書いて行く手書きの個性を消す働きをしがちだ。
もちろん、手書きの文章もパソコンの文章も同じという者は少数ながら存在する。
それは書くことをプロとしている者に多い。

手書きの利点は、作者の思考が手書きの速度でなされるところである。
パソコン画面に打ち込む文章は、
手書きの文章よりも速いスピードで書かれることが多い。
パソコン文体では、そのスピードで考えて文章を書き進んで行き、
それゆえ趣きに乗れば一気に文章は進む。
このスピードの差異が思考の差異になって現れがちだ。

・このスピードの差異が、手書きと手打ちの文体の差になって現れるのは当然だろう。
手書きでは場面描写が緻密に描写されるが、タイプ打ちでは興に乗ると
一気に場面描写は進み、その分文体は弛緩し饒舌になりがちだ。

・手書きと手打ちの差異は、微妙に文体の色合いに反映してくる。
手書きでは文章の流れが悪い反面、ごつごつした文章になりがち。
これは良く出れば個性的な文体になって魅力を際立たせる。

・一方、画面を見ながらのパソコンの手打ちでは
文章の流れは流暢になるが、描写が長くなりがちになる。
もちろん、これは手打ちの技術に慣れている書き手の場合である。

・いずれにしても、書き手の思考は書くスピードで思考されるので、
手書きとパソコン打ちでは、同じ作品を書くにしても
微妙に違いがあるのは当然だろう。

  ・老いてなほ若き文章艶めくは読者を迷はし眠れなくする  石塚 邦男

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ご批評有難うございました

 投稿者:市川しのぶ  投稿日:2019年 3月 2日(土)14時30分46秒
返信・引用
  弦104号ご批評、その1--2月22日付け、その2--3月1日付け。有難うございました。同人一同に知らせて、今後の作品を書く時の心構えにしたいと思います。
105号は原稿提出がもう終わっていますので、もうすぐ校正に入れると思います。次号もよろしくお願い申し上げます。
有難うございました。
 

:::同人雑誌は下記の住所へお送りください

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 2日(土)11時31分25秒
返信・引用 編集済
      ・同人雑誌の送り先

   郵便ー053-0011 北海道苫小牧市末広町1-12-1-920

            石塚邦男方  根 保 孝 栄

              電話・faxー0144-33-1284

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「弦」104号(名古屋市)その2 木戸順子「蝶の来る庭」は、生きる意味を見つけた女性の姿を描く

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 1日(金)21時04分55秒
返信・引用 編集済
  ・白井康「はざまの海」は、珍しく海運業界の内幕を舞台にした海洋物である。
不振を極める海運業界の苦悩と社員、乗組員の労苦。
パナマ運河の運営の仕組みを中心にした人間模様なのだが、
珍しい海洋物の舞台は新鮮であった。

・山田實「木の魚」は、家庭不和から父と離婚した母と二人の子どもは
居を移して生活を始める。しかし、それは大変なことであった。
そんな一家の生活を子供の目線から細やかに描いた作品。
作品と登場人物に対する作者の労りの心が伝わる良い作品である。

・筧譲子「西洋人形」は、戦後の田舎町の17歳の見習い看護婦の
生活と働きぶりが大切に描かれている。

・森部英生「桜人」は、大学を定年に2年を残して退職し故郷に戻った私。
友人知人は、なぜ辞めるのかと言ったが、読み残した本を読んだり音楽を聴いたり、
街に出てモーニングサービスのコーヒーを飲みながら寛ぐ時間は充実しており、
退屈や不便を感じたことがない生活だ。そんな私の半生を振り返る内容で、
誰しもが一度は手がける作風であるが、細やかな描写が生きていて好感を持った。

・木戸順子「蝶の来る庭」は、夫の交通事故で一人息子を亡くした妻の私は、
夫が息子の翔にシートベルトをさせなかったことを恨めしく思っていて、
夫を許すことができないでいる。そんなとき夫はタイに単身赴任して
独り暮らしになった私は・・という設定の作品であるが、
ベテラン作家らしい筆筋で、子供たちに無料で夕食を提供するボランティアに
懸命になって生きる意味を取り戻す主人公の姿を描いた作品。
人間は生きがいを見出すことがどれほど大切なものかを問いかける作品。

 ・失ひし子の思ひ出に囚はれて空しき日々を過ごせる女(ひと)あり  石塚 邦男

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「季刊遠近」69号 その1(横浜市)高く評価される特異な近未来小説は、逆井三三「老人兵の時代」の現代批評眼

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 3月 1日(金)20時09分7秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌を創刊号の頃より読んでいるが、最初に送って来たのは、
元北海道に住んでいた田中恵美子さん。
彼女が函館に住んでいた頃、北海道の老舗同人雑誌「山音」の同人であり
後に東京に移住したあと「季刊遠近」に所属して雑誌を送って来るようになった経緯。
田中さんは北海道時代、全共闘時代の青春を描いた小説の佳作が光っていた記憶がある。
それが「遠近」の会員になってからはほとんど作品らしい作品を書かなくなって久しい。
どうしているかと時折気にしている。
個人的な蛇足はそれくらいにして、作品を読みだす。

・逆井三三「老人兵の時代」は、二十一世紀後半の時代という近未来を設定、
老人が徴兵に駆り出されて軍事訓練をする、というSF小説なのだが、
この作者にして初めての新鮮な作品と注目した。
若者が軍隊に志願しなくなった半面、相変わらず紛争地のごたごたが増えている。
補充兵員不足になって政府は苦肉の策として年金受給老人に徴兵の義務を課す
ことになった・・そんな時代の着想がユニークな話である。

兵舎に入り軍事訓練を受けるようになった独居老人兵の奇妙な日常と心理状態。
これがコケティッシュに皮肉に書かれているところが
文明批評にもなっていて実に面白いのである。
娼婦を抱きに行ったり仲間の兵隊のみじめな過去が語られたりするところは、
昔の軍隊みたいだが、実際の戦闘地での実戦となると
様変わりした未来兵器と戦闘方法だが、戦闘であることには変わりがない。
その結末は・・・時代批評、人間批評になっているところが秀逸であった。
この作家の斜に構えた物の見方が初めて地力を発揮した小説世界であろうか。

・エンディングは次のような場面で終わる。
シニックで痛烈な現代批評になっているところが高く評価される作品である。

  「私はここで死ぬ。馬鹿げた戦争の犠牲者として、立派な
  日本国民として、私は国家に大して貢献はしていない。それ
  ほど稼いだこともないし、子孫も残さなかった。ただ、私
  は普通より早く死ぬ。そのことでは国家に貢献した。私は
  年金をもらったことはない。それは自慢していいいことだ。
  老人兵としてあっけなく戦死したことだけが、冥途に行く
  私の自慢話だ。最高だね。」

   ・老兵は死なずと言ひし将軍の演説しみじみ聴きしときあり  石塚 邦男

 郵便ー225-0005
      横浜市青葉区荏子田2-34-7 江間方

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米国は本気だ。中国潰しに最後の切り札に踏み切る

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月24日(日)15時58分25秒
返信・引用 編集済
  ・中国の世界制覇の夢は頓挫する危機に直面している。
中国製の携帯電話は米国では接続できないことになりそうだ。
なぜなら、トランプ大統領は、ハウエイ製品などの中国製携帯電話は
アメリカでは使用できないことに踏み切る。

・安くて良い中国製の携帯、日本の消費者にも好評だったが、
アメリカへは接続できないとなれば、大問題。
アメリカは最先端通信機器分野で中国製を全面的に締め出す戦略だ。
それがダメだというなら、中国は南沙諸島の軍事基地を撤去、廃棄して
中国に帰れ、後進国に進出している中国の出先を撤去して、
中国へ引き揚げろというわけだ。

・アメリカは中国に「イエスかノーか」と最後通牒をつきつけたわけだ。
次世代先端技術ファイブGの覇権争いは米中の間で熾烈な展開を見せだした。
ID先端技術の部品から絡繰りまで、中国に好きなように盗まれて来たアメリカは
ここにきて中国シャットアウトの戦略に本気に取り組みだしたということだろう。

・思えば、日本ナンバーワン時代、アメリカに叩かれて蹴落とされた
苦い経験の日本企業は、アメリカの恐るべき排他主義を思い出すだろう。

中国の習近平政権は最大のピンチ、崩壊の危機に立たされている。
中国では、アメリカとの摩擦を避けるために、
習近平排斥の機運が高まってきそうだ。
中国はアメリカとの摩擦を回避するため、
どのような手を打つのか
見ものである。

  ・米中の覇権争ひ熾烈なり列島にはびこる国粋憂ふ  石塚 邦男

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客星

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2019年 2月24日(日)05時35分16秒
返信・引用
  北海道岩見沢市には田中聖海という才能ある詩人がいる。このたび蒐(Syuu)
という詩誌を手に入れ『客星』という詩を読んだ。以下はその全文である。

客星

湖の岸辺には日が射し
若緑色の藻を縫って
名も知らない小さな魚が
自らの影を愛おしむように泳いでいた

林道を渡れば
響くのは互の声の明るさだった

どこまでも流れて どこまでも漂って

歩き続けて夜に向かう

岸辺を走る列車に乗れば
思いもかけない車内の昏さに
窓に映る男の横顔ばかり見ていた

不意に立ち上がり
怪しむ私を手で止めて後方へ移っていく

慌てて立ち上がったわけでもなく
ことさら息を潜めたふうでもなかった
いつまでも戻らない
外を見ればプラットホームで
動き出した列車に合わせて動いている

間に合わない 間に合わない
窓を叩く私に
手を振るばかりで少しも急がない

一瞬明るく浮かび上がり 一瞬のうちに過ぎ去る

過ぎてから死者はここで降り 次の駅でも降り
生者を乗せて列車は客星の輝く死の下を
走り続けていることに気づく
 

新刊『廃園』について

 投稿者:高岡啓次郎  投稿日:2019年 2月23日(土)10時01分9秒
返信・引用 編集済
  海の同人である井本元義さんは2月8日に幻想詩譚『廃園』を上梓された。この本には全編にわたって霧が漂っており、女の顔を隠すベールがひらめいている。それは人間が彷徨いながら原野を歩くときの霧であり、水の中から人間世界を見ているときの、境界に生じる、どこかなまめかしい膜みたいなものであろう。詩的な文章で綴られた作品には現実と虚構がよじれた縄となって読む者に絡みついてくる。そのよじれはメビュウスの輪のような魅力を持って酩酊を誘う。時間と空間、生と死も、混沌とした中で絡み合い、やがて螺旋階段となって読者を歩かせる。それが上方の甘味な花園に向かうのか、下方の計り知れない深い混沌に向かうかは誰も知らない。読んだあなただけが答えを見出すだろう。

その螺旋階段を歩いてみたい人は下記に連絡されるといい。
  813-0025 福岡市東区青葉6-7-4 井本元義
 

米国の中国潰し戦略は着々

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月22日(金)15時22分59秒
返信・引用 編集済
  ・中国の習近平政権は岐路に立たされている。それは米国の中国潰しの
戦略強化のためだ。中国の先端技術の進歩を脅威と考える米国。
先端技術の部品輸出を差し止めて、中国の組み立て工場を操業できないように
しようという戦略が着々進んでいる。

・国防権限法を強化して、中国への技術移転を阻止し、
中国の留学生を締め出そうとする米国の戦略は中国にとっては痛いだろう。
トランプ大統領の戦略は、追い上げる中国の先端技術を頭打ちに封じ込めること。
そのための布石として、貿易の関税引き上げ措置である。

・米国の先端技術を盗みまくっている中国共産党の戦略を阻止するため、
米国はあらゆる手を使って惜しまない戦略だ追う駅立国。
ここで微妙な立場にあるのは貿易立国の日本である。
日本の貿易の相手国としては、米国、韓国と並ぶ中国である。
中国との貿易なくしては日本は立ち行かない現実がある。

・であるから、米国とは安保条約を結ぶ盟友であるが、
中国とは、南シナ海問題、尖閣諸島問題で敵対関係にある日本だが、
対中貿易は続けなくては国は立ち行かない。
アメリカと中国の対立のはざまで対応に苦慮している日本だ。

・だが、アメリカと中国の対立が激しくなると、
どちらの側に立てばいいかの選択に迫られる。
軍事的対立では、安保条約を結んでいるアメリカ側に立つとしても、
貿易問題では、アメリカ一辺倒で味方するわけにもいかない。
米国と貿易問題で対立する中国は、このところ日本に歩み寄っている。
日本も貿易問題では、中国とうまくやりたいしアメリカともうまくやりたい。

・日本の立場は微妙だ。安倍政権の外交力が問われている。

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「弦」104号(名古屋市)その1 高校サッカーの監督の話を書いた意欲作は長沼宏之「誤審」、しみじみした人生の悲哀は市川しのぶ「女優」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月22日(金)14時40分23秒
返信・引用 編集済
  ・長沼宏之「誤審」は、珍しいスポーツもの。主人公は、高校サッカーの監督。
私立作東高校のサッカー部監督の大野は、名門のサッカー部を率いて、
全国大会を目指す。危うげなく決勝に進んだが・・・という話は、
試合の迫力ある一進一退の攻防が描写される一方、チーム再建の苦労話、
試合の誤審にまつわるマスコミや街の後援会の政治的動きなどが
立体的に描写された問題作である。
この作者は、なかなか器用でな書き手で、時に秀作もものにする作者で、
今回は問題作を引っ提げての登壇であった。

・市川しのぶ「女優」は、昭和、平成と活躍した舞台女優千波の思い出話を
その友人の小夜の立場から語る内容。この作者も名古屋の有力な書き手の一人だが、
今回の作品も、しっとりとした人生の味を読ませる佳作であった。

・フランシス・和田「さよ」は、亡くなった息子の友だちであった青年との
情事を、主人公の人妻さよの目線から回想する艶っぽい話。
9歳年上の夫の啓介と結婚、一人息子に恵まれたが、19歳で白血病にかかり
あっけなく亡くなった。さよが息子の友人として出入りしていた聖弥と
関係するようになったのは、夫の啓介が脳溢血で倒れ・・という筋書き。
これも巧みに書ければ渡邊淳一的な作風として読めるはずなのだが、
この作品はさもさもご都合主義の筋書きで、
主人公さよの若者に溺れる心理を掘り下げきれず
パターンにはまった作品に終わったのは残念。

男性作家にとって<情事小説>は最も書きたいテーマのひとつだろうが、
大抵失敗するのは、表現力がないのに書こうとするからだ。
情事小説が読めるほどの作品に昇華できるのは、
心理小説として成り立つときしかないものだ。


  ・まどろみつ白昼夢を見る午後のひだまりやさしくわが身を包む 石塚 邦男

 ・名古屋市守山区小幡中3丁目4-27 中村賢三方「弦の会」

   電話・fax 052-794-3430


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くもの階段

 投稿者:秋乃みか  投稿日:2019年 2月18日(月)23時52分52秒
返信・引用
  読んでいただいてありがとうございました。
文章がもたついているとは。とんと気付きませんでした。
好い学びになりました。感謝申し上げます。
 

「差別用語」の仕分けとは、使用する側の基準ではなく、使用される被害者の側の問題である

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月18日(月)21時22分2秒
返信・引用 編集済
  ・行動による差別と言語による差別はどう違うのか。

・「群系」という雑誌の掲示板で、<差別用語>についての論争を読んだが、
いささか違和感を覚えた論理が多数を占めていたので、私の意見を若干述べてみたい。
「群系」の掲示板では「昔、普通に使われていた人を軽蔑するときの言葉などが、
現在は軽蔑用語としてマスコミなどでは禁じられているのは分かるが、
小説などで使用できないとなると、昔の時代の真実を書けないではないか、
として、現在の禁止用語の制約は厳しすぎるとする意見が大勢を占めていた。

・差別用語は、使用する側の問題というよりも、受け手の痛手がどの程度か、
の問題だろう。使用する側が差別意識なく、慣用句として使用する
<禿げ><ふとっちょ><でぶ><ちび><びっこ><かたわ>は、
大多数の受け手が屈辱的に感ずるなら、
それは実質的な<差別>になり、使ってはならないことだろう。

・例えば、喧嘩のセリフとして、黒人を<くろんぼ>
アイヌ人を<アイヌ>と言ってなぜ悪い。
黒人はくろんぼでないか、アイヌはアイヌではないか、と言っても、
それは通用しない。
侮蔑的に使うとそれは差別となる、ということなのだ。

・実際、欧米では太った相手を<でぶ>、禿げた人間を<禿げ>と言ったとしたら
差別とされ、言ってはいけないことになっている。
<禿げ>と生徒に渾名をつけられた教師は、それを愛称と受け止めて受け入れるなら、
その教師にとっては<禿げ>の言葉も差別にはならないが、
別の人間が屈辱的な言葉と感じるなら、それは<差別用語>にあたることになる。
とすれば、<禿げ>は一般的には侮蔑用語、差別用語として禁句になるわけだ。

・差別用語とは、使用する人間の基準で推し量ることではなく、
受け手がいかに思うかの問題なのである。
受け手によっては差別にもなり、親しみのある愛称にもなるとしても、
使用しない方がいいとして禁句になっており、
<侮蔑用語><差別用語>となるというのが
現在の差別用語の仕分けの実体なのである。

・つまり、<差別用語>とは、使用する側の都合ではなく、
使用されて傷つく側を優先して定められたものなのだろう。
だから「俺は<禿げ><びっこ><かたわ><ちび>の言葉を
差別用語とは思わない」と言っても、
それは本人だけの価値判断で、一般には許されないことになるわけだ。

・この問題を細密に突き詰めると、大きな論議になることは確かであるが、
さて、皆さんはどのようにお考えか。

 ・人間の心に魔物の棲むと言ふ反日反韓鬩ぎあひする  石塚 邦男

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ありがとうございます!

 投稿者:山田キノ  投稿日:2019年 2月16日(土)21時50分48秒
返信・引用
  海峡派の山田キノと申します。
ご批評、誠にありがとうございます。
大変嬉しいです。
これからも頑張ります!
 

「じゅん文学」(名古屋市) 読み残した作品の感想 作家は自分の持ち味を自覚することが出発

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月16日(土)18時17分56秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌の読み残した作品について、2、3コメントしておきたくなった。

・96号の秋乃みか「くもの階段」は、題名が内容とどのように連動するか、
興味を持ったので読み返してみた。100枚に及ぶ作品の文章は、
もたついていて読みにくいのが難点だが、
主人公<私>の生い立ち、父母、兄弟、親戚の話をぜひとも書き残したい、という
作者の必死の思いが伝わるところが買えるだろう。

・飯田労「卯辰の流れ」前編は、学生時代金沢の美術大学で学んだことが懐かしく、
60になった<私>は金沢を訪ねるところから書き起こす。
自然描写、環境描写を細密に美しく描く作者の金沢に寄せる愛着がにじみ出ている
ところがいい。

・三雲倫之助「個室ーカフカ変身」は、この96号の雑誌を手にしたとき
触れたかった作品であったが、多忙にかまけて触れずにすぎたのは心残りであった。

<私は朝になると目覚め、同時に生きているのかと深い溜息を吐き、
失望の底なしの奈落に落ち込んでしまう>

このような文章で始まる一読ユニークな作品なのだが、
<カフカ「変身」>の副題とどのように連動するのか興味があった作品。
屠殺場に運ばれる家畜のように工場に運ばれ肉体労働している主人公。
そして、主人公は世間の人間から疎まれ疎外される存在と自覚している。
そのような主人公は常に公安につけ狙われ監視されているという
被害者意識を胸に油断なく生活する。常に盗聴されているという意識。
全編モノローグの被害者意識で成り立つこの作品、実験小説というには
三島由紀夫、ニーチエが出てくる割には生煮えの未成熟な作品と
読めたが、どうだろう。
だが、次作にどのような作品を書いてくるのかと、
興味をつないだ作者であった。

・猿渡由美子「奈辺」は、一度触れた作品だが、
98号の作品よりも数段優れていた。理由は離婚の危機に直面している
娘の悦子が母の元を訪ねると、中学生時代に別れた父が訪ねて来ていた。
その微妙な空気を見事に書けていたところが良かったのである。
つまり、この作者は、心理小説作家として地力を発揮する資質なのである。

 ・自分とは何者なのか知る知らず作家は今日も書きたいものを書く  石塚 邦男

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ありがとうございます

 投稿者:kaikyoha  投稿日:2019年 2月15日(金)21時07分4秒
返信・引用
  根保様
「海峡派」のご紹介、ご批評、ありがとうございます。同人の励みになります。また、山田キノさん、とても若い方です。さっそくお知らせします。喜ぶと思います。ありがとうございました。
 

「詩と眞實」834、835、836号(熊本市) その4 秀作は井本元義「酔芙蓉」妻と愛犬への切々たる愛情は読者を感動の世界へ酔わせる

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月13日(水)14時56分0秒
返信・引用 編集済
  ・1月号の井本元義「酔芙蓉」は、夫婦が70歳になろうとしていたころ、
貰って来た犬であった。二人が亡くなって犬だけが残ったなら犬が可哀想
だとは思ったが、妻は「死ぬ頃は一緒でしょう」と気にせず飼うことにした中型犬のロン。
そういう夫婦の話から物語は始まる。私はロンと毎日散歩に出るのが日課であった。
10年が過ぎるころ、ロンは食欲がなくなり散歩にも行きたがらなくなった。
妻は悲しそうであった。
「俺たちはこいつの死んでいくのを見守るしかないのかな」
私がそう言ったとき妻は涙目で私を見た。しまった、と私は思った。
結婚して2年目に子どもを授かったのだが、風邪をひいて熱を出し
深夜に引き付けを起こした。
雨の日に病院に連れて行くのが心配で、市販の薬で熱を下げようとしたが
無駄だった。ただ名前を叫んで見つめる以外になかったのだ。

この愛犬の死を見守り見送る老夫婦の姿を活写しただけの話なのだが、
老犬と久しぶりに散歩にでて、池の縁で酔芙蓉の鮮やかな花を見て帰った。
「いやあ、久しぶりに歩いたら疲れたよ。ロンも疲れたかな」
迎えにでた妻に言うと、妻は私に言った。
「どうしたのですか、ロンは寝巻のままここにいますよ」
私は何が起こったのかわからなかった。

ロンが亡くなり布団をかぶせ係に電話した。
私は池まで酔芙蓉を採りにいき、棺を白い花で飾ってやろうとした。
車が行ってしまうと私はやすらかな気持ちになった。
玄関に戻って妻に声をかけたが返事がない。

 おおい、終わったぞともう一度大きな声を上げた。それでも反応はない。
 部屋にもいない。どこにも行くはずはない。私は不思議な気がした。

・このような最後のどんでん返しシュールリアリズムの終わり方。
たった20数枚の作品なのだが、
妻は果たして現実の存在なのかどうか・・。
最後の一行で、読者は芙蓉に酔ったような気持ちで
この作品を再読したくなるのである。

ここ数年で読んだなかで、珠玉の短編とはこんな作品だろうと感じ入った次第である。
最近の若書きの芥川賞には見られないベテラン練達の短編であった。
話の筋書きも子どもを失った妻の哀しみ、愛犬の看病とその死と
酔芙蓉の効果音とも、名曲を聴くような構成と描写力は見事なもので感嘆した。
ここ数年でベストファイブのナンバーワンの作品であろう。

この作家の小説にはどの作品にも<言い知れぬ悲哀>が低音部に流れている。
つまり、文学性である。また、文体も新鮮で旧くはない。
これは、日頃作品を相当に読んだり書いたりしていることを証しているか。
また、小説創りの方法論に深入りすると、
小説の主旋律を構成するのも巧みだが、何よりも間奏や枝葉の描写が
主筋を際立たせることを知っているテクニシャンでもある。

効果音の入れ方を本能的に知って身についている作家なのだろう。
どの行、章にも無駄がないように読めるのも、
<文学性>が身についているためだろう。
若いうちに小説家を目指していたなら、
作家仲間では怖ろしい存在になっていたろう。

・武村淳「天井の花びら」は、<平成のコントロールできないファンタジー>の
第一話とあるので、2、3と継続するのか。
東京の大学の法学部を卒業し大手の商社に就職、
売上げトップの成績であったが、そのうち苦戦を強いられ・・・。
穴倉のようなアパートからギターを抱えて外出し
コンビニで弁当と酎ハイを買って、
お宮の桜の木の下でギターを弾き始める若者の話。
夜は薄暗い通りでギターを弾き小銭を稼ぐ。
そんなバブルが弾けたあとの日本の若者の話は、
悲惨だ。

・この号の詩作品は、あびる「雑草」の文明批評、
右田洋一郎「A day in the life」の永遠の命の賛歌、
惣うえもん「産直方式詩集」貧乏詩人の詩集作りの悲哀、
宮田薫「太陽がいっぱい」の童話的愛の世界。
それぞれの個性を伸ばしたい。

 ・幽玄の酔芙蓉に酔ひしれて夢か現か知らず生きけり  石塚 邦男

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ようやく一段落して、また始めます

 投稿者:根保孝・石塚邦男  投稿日:2019年 2月13日(水)07時53分16秒
返信・引用
  しばらく遠のいてましたが、同人雑誌評また再開です。旭川の短歌会の新年会終了、評論も書き終え、北海道短歌会の依頼原稿もあげてしまいました。身軽になりました。(^-^)/??

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「海峡派」144号(北九州市)その1 読んでいて思わずホロリとした作品は、山田キノ「美しい景色」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月 8日(金)01時47分10秒
返信・引用 編集済
  ・山田キノ「美しき景色」は、巻頭の作品。
40歳になる妻が3年前、若年性認知症と分かった。
夫の<俺>は落ち込んだが、伴侶として守る義務があると心得、
仕事をこなしながら精いっぱいの手を尽くしていた。

妻は自分が妊娠したと思い込むようになった。
しかし、妻は子宮を摘出してるので、妊娠するはずがないのだ。
だが、俺は逆らわず、それと認めて「君の身体が心配だ」と大切に扱うようにしていた。

ある日、俺は医者からステージ4の胃癌で数か月の命と診断される。
俺がいなくなったら、この認知症の妻はどうして生きていくだろう。
妻は一人っ子で両親もすでに他界していて、妻の面倒を見る者はいない。
それを思うと、二人で散歩していても涙が自然に出て来てとまらない俺だ。
妻は「どうして泣いているの。変だわ」と言う・・。

7、8枚のショート・ショートの作品なのだが、
読んでいて思わずもらい泣きしそうになった。
編集者が巻頭に持ってきただけのことがある作品である。
新しいとか旧いとかの評価以前に、情に切々と訴えてくる作品であった。

 ・美しき夫婦愛の話読み思はずホロリと涙こぼれたり  石塚 邦男

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「群系」41号(東京都)その3 絶妙の文章は井口時男のエッセイ「焼き鳥とホロコーストー俳句と無意識」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月 7日(木)07時18分49秒
返信・引用 編集済
  ・この雑誌は文芸評論中心の雑誌であるが、
短いエッセイを寄稿しているなかに、
時折、読者の心にしみる味のあるものがある。
この井口時男の文章、味わい深かったので触れたくなった。
作者は文芸批評を書きながら、結社に所属せず俳句を作っていて、句集も2冊ある御仁。
この文章は、文芸批評の世界と俳句の世界の違いを述べているものなのだが、
俳句とは縁のない人からの感想などに
面白い意外なものがあったことなど
絶妙の文章で紹介しているところが深く印象に残った。

・文芸批評や小説を書いている者は文章が巧いと思われがちだが、
実際は、私も含めて文章はあまり巧くない者が多いなか、
この作者の文章は、絶妙の名エッセイストの文章なので感心した。

 ・何気なく書かれし文章香り立つ茶葉にも似たる味はひなりき 石塚 邦男

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「詩と眞實」834、835、836号(熊本市)その3 「詩と眞實賞」散文の部受賞は、ハンセン氏病問題に取り組んだ武村淳さん、力作は柴垣功の練達の筆筋「天守閣炎上」

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月 6日(水)16時50分42秒
返信・引用 編集済
  ・「子供をしかるな、来た道だから。年寄りを嗤うな行く道だから」
 こんな言葉を年配者から耳にして覚えている。なるほど、良いことを言う。
父親が子どもを折檻、虐待する話を報道で知って厭な気分になっている。

・そんな折に「第47回詩と眞實賞」の話を同誌で知って気が少し晴れた。
同賞の散文の部では武村淳さんの受賞、詩部門の受賞者井本元義さんについては
すでに紹介済みである。この武村さんはハンセン氏病の予防と
裁判問題を扱った作品を書いて尽力した作家で医師でもあるらしい。
立派な仕事をなさった方の受賞を喜びたい。

・12月号の小説は柴垣功「天守閣炎上」100枚の力作。
明治10年の2月、西郷隆盛の軍隊が熊本の鎮台目指して攻めだした頃、
19歳の主人公はその攻防を体験することになる・・と言う話は本格小説。
7か月の攻防戦で戦死したのは、官軍、薩摩軍共に6500人前後。
城下は見渡す限り焼け野原になった。この戦いで住民たちは酷い目に遭ったのだ。
そんな背景の平民たちの生活の側から詳細に生々しく浮き彫りにしたところが
この作品の価値であろう。既成作家に劣らぬ練達の筆筋は、並みの作家ではない。
直木賞水準の作家とでも言えようか。

・今号の詩作品に触れたい。第一連紹介。

   明日  北原政典

 今日が昨日だった時
 のろまなぼくは
 明日が来ることが信じられなかった
 でも 昨日の明日は凶になった

   葡萄  林 恭子

 微かに白き粉を吹いて
 濃き紫を黒くして
 房を豊かにみせていた

 ・北原の作品は、<明日が少なくなっていることを知った>とあるように、
  時の移ろいと自然の移ろいの不思議を読者に静かに問いかけるところが、
  味わい深い。かなりの詩歴を持つ詩人か。

 ・林の作品は、<白き粉><濃き紫>と文語を部分的につかっている語法
  が気になったが、<静まりたまえ><堪能させたまえ>という祈りに、
  作者の素朴な願いを感じて好感。未だ現代詩の初歩的段階ながら次作注目。

    ・天守閣修復つづく熊本城の悲惨な歴史をここに読みたり 石塚 邦男

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「詩と眞實」(熊本市)その2 井本元義さん「詩と眞實」賞受賞の言葉紹介

 投稿者:根保孝栄・石塚邦男  投稿日:2019年 2月 6日(水)03時42分30秒
返信・引用 編集済
  ・福岡市在住の詩人、小説家、エッ セイストの井本元義さんが、
このほど月刊同人雑誌「詩と眞實」の年間賞を受賞したが、
その受賞の「お礼の言葉」が、実に良い言葉なので、
以下紹介しておきます。詩人の言葉らしい素敵な言葉でありました。

   受賞者のお礼の言葉     井本 元義

 六十歳の時に還暦の記念と思って詩を書いたのが四十年ぶりだった。
実業の世界で悪戦苦闘した四十年間であったが、
その間に見た色とりどりの花や季節ごとの野や森や、
かつてその猥雑さで魅惑した街の暗闇や、
愛した女たちを思い浮かべてペンを走らせた。
 その時、一編の詩に出会った。

「一輪の薔薇、それはすべての薔薇である」リルケの詩である。

 僕は激しく心を揺さぶられ数編の詩を書き第一詩集「花のストイック」をまとめた。
その中で僕は語った。

「薔薇ほどその美しさを誇示し、その深淵を内包し生を謳歌するものはない。
そして枯渇して行く時の尊厳は生を愛するものの心を激しく打つ。
怒りのような壮絶さでそれは外界の全てを拒否し
満足と思える鮮やかさで姿を消す。
・・・薔薇の拒否ほど正確で美しいものはない・・・
詩人は詩人は一輪の絶対の薔薇の美しさの前に
もはやどんな表現力を持つこともできない。激しくその薔薇を愛するだけである」

 そして十五年経って僕は老いた。
「老いてまだまだ青春だ」という詩があるそうだが、
これほど恥知らずで睡棄すべき愚かな言葉はない。
青春とは眼前に広がる深淵にたちつくし、
恐怖と不安にとらわれながら愛と希望に満ちた青年のための言葉である。

 わが老年の前には干からび滅びていく肉体の「個」としての消滅しかない。
愛や希望などあるはずがない。
 しかしこの消滅へ向かうエネルギーほど激しく悲しく美しいものはない。
深夜目覚めてはその滅亡へ向かう奔流を書き留める。
歳とともにそのインクの色は濃くなっていくが、一文字一文字に救いはない。
 ただ「個」の消滅のあとに飛散して行く美しい言葉はあるだろう。
 夜明けにそれは暗黒の激しい光を放つであろう。


 ・枯れてこそ価値の耀く咲き誇る一輪の薔薇の香りす  石塚 邦男

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