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上杉朋史「西田信春ー蘇る死」 その2

 投稿者:石塚邦男・根保孝栄  投稿日:2021年 5月24日(月)06時50分42秒
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  ・西田信春の祖父は奈良県十津川村の出である。十津川村の住民は大災害によって壊滅的な打撃を受けて北海道移住を決意し入植、新十津川村を建設した。父の英太郎は、この新十津川村の移住者とは関係ないが、後に村長として村に貢献するようになる。西田信春は、明治36年、札幌一中(現在の札幌南高)に入学、12歳から17歳まで札幌で下宿生活をしている。北海道の歴史の権威北大名誉教授であった高倉新一郎は一中時代の同期生であった。信春は5年の時、一高受験に失敗し東京に出て浪人生活をする。

・西田信春は大正10年一高文科甲類に入学、一年先輩に日本共産党の志賀義雄、ゾルゲ事件に連座して処刑された尾崎秀実らがいた。寮生活の二年のとき、身体が大きかったのでボート部に誘われた。1923年夏休みで帰省して東京へ戻って来るや関東大震災に遭遇する。

・1924年(大正13年)東京帝大文学部倫理科に入学、満21歳であった。作家の中野重治は第4高等学校を2度落第して東京帝大文学部ドイツ語学科に入学し、西田と深い関係を結ぶことになる。この年、小林多喜二は小樽高商を卒業し北海道拓殖銀行に就職している。当時の東京帝大構内は社会主義の解放区のようであった。震災後のため校舎は倒壊しバラックの教室が急きょ造られるありさまであった。

・「札幌文学」の主宰者であった澤田誠一氏は「高倉先生は一中時代の西田について虐殺されたことを知って仰天したと語ってました」とし「凄さは、頑として口を割らず、氏名不詳のまま警察で死んでいった強固な意志である」と北海道の月刊誌北方文芸などに書いている。

・西田信春が「東京帝大新人会」に加入したのは、1925年(大正14年)の末。この会は東京帝大を中心とする学生運動団体で、大正7年結成され、昭和4年の解散まで戦前の学生運動の中心的存在であった。当初は人道主義、理想主義的社会主義の立場で労働運動、農民運動の指導者を輩出したが、日本共産党の再建後は、その下部組織的役割を果たしていた。

・大正14年に京都帝大、同志社大で相次ぎ軍教反対運動が起き、これを取り締まる特高による任意同行、家宅捜査事件があり、農民労働党の結成も即日禁止されるという政治的活動弾圧が顕在化、東京帝大新人会にも特高の手が伸びて来た。

・当時の学生運動は活発になり、早稲田大学には「民人同盟会」、法政大学の「扶信会」、慶応大学の「反逆会」、明治大学の「オーロラ会」、一高の「社会思想研究会」などがあり、相互に連携を強めて大正11年(1922)には26校による学生連合会が発足した。第一回大会が1922年(大正11年)東京帝大で全国49校の学生代表が参加、「学生社会科学連合会」と改称、学生団体70余、会員2000人に膨れ上がる。

・北海道では、1923年(大正12年)北海道帝国大学に「社会経済研究会」が、小樽高商には24年「社会科学研究会」が発足した。このとき小林多喜二も参加したが、この年3月には卒業している。



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