投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 足あと帳(0)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


日本の健全な経済とは

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 7月16日(月)12時31分35秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   世界経済は、自由主義経済から、国家主義経済へ移行している。それは、専制主義国家が、国家の威力をもって、自由主義経済圏を蹂躙し始めた頃に起こり始め、今や動きが取れない状態にまでなった。

 日本を始め、自由主義経済圏は、協力してその経済を維持する努力をしているが、それも、世界経済の流れを止めることは出来ないだろう。これからは、国家間の秩序は、国の利己主義が横行し、国際法の機能も失われる。秩序理念のない衆愚政治のようなものだ。

 それでは、国家として自国の経済はどのような姿になるだろうか。これまで推進してきた自由貿易で、お互いの国家の文化を高められる方式は、限りなく後退する。自国主義が横行し、他国に影響されない、自国のみの繁栄を図る国家が増える。日本は、資源が乏しいから、技術立国を目指し、貿易による利益を得ていた。その構図を変えざるを得なくなる。

 それでは、日本はどのような経済を目指し、改革すべきなのか。日本人は勤勉と言われているが、実は、勤勉さが必ずしも合理的な社会を生み出しているとは言えない。政治の劣悪な施策が横行し、至る所に間違った不合理なシステムを温存してしまった。農業を始め、社会の至る所に高コスト構造があり、人の労働の効率が極めて悪い。高度成長政策の名残なのか、経済活性化の手法もあまり変わらない。そのような施策では、世界経済の変化に対応出来ない。

 日本経済を世界に頼ることなく発展させる方法は、自国の経済を、自国の中で活性化させる方向へ転換すべきではないか。多少痛みがあるかも知れないが、自国内の保護政策を撤廃し、競争原理を復活させねばならない。その中に、世界に対応出来る強力な企業が生まれる。

 想像出来ないかも知れないが、自給自足のような、細々といとなむ農業は激変する。本当の世界農産業の実現も不可能ではない。多くの機械やAIを駆使する、資本の大きな企業も生まれる。結果的に、変革された企業が生み出す利益が国民を潤すことになる。このような現象が各産業に及べば、日本経済のコスト構造は正常化し、活性化する。そこに人も集る。

 高度成長型の経済指標も、これからは国内産業の志向すべき特殊な指標へと変えねばならなくなるのではないか。言い変えれば、国内産業の付加価値の伸びは、どのようなところ現れるかが問題なのだ。
 

地球資源の悪化

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 7月11日(水)14時26分45秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   地球の資源の大量消費が問題となっているが、日本は特に先進国として消費量は大きかった。後進国の消費が急増する時代がやってきた。地球は益々破壊が加速する。

 そのような状況に鑑み、日本社会は、特に無駄使いを戒めるべきではないか。リサイクルも必要だが、それよりもっと大事な事は、ゴミを大量に出すことが習慣なってしまった社会を変革する必要がある。
 経済問題で、消費を奨励することが景気回復の常識となっているが、本質的にこの考えの中に、かつて使い捨てを美徳のように奨励したこともあったが、そのような間違いを含んでいる。

 最近、ネット購買が急増し、宅配が盛んになっている。このこと自体はシステムとして問題とは思わない。しかし、資源面からみれば、合理性を欠くところがあるのではないか。多くの方が経験されていると思うが、宅配を受け取る側は、注文の品より遥かに大きな荷物が届けられ驚く。中身の品は箱の中の片隅に小さく貼り付けてあり、周りは全部詰め物なのだ。受ける側の廃棄物は多大で困る。中味の品の保護というには、全く見当違いのやり方なのだ。更に、冊子や本のようなものが、宅配でまとめられると思いきや、同日に別々の包装になって届けられる。全く訳が分からない。嵩高い荷物は、まるで空気を運ぶような搬送の無駄コストになっている。

 合理的でない施策は、一時的に良さそうにみえても、殆ど相対的、表面的なもので、その中には目に見えない無駄と地球環境などを害する罪悪を内包している。従って、国家の政策は、その罪悪を除き、多少不便でも人々の守るべき社会の縛りを示す理念がなくてはならない。裕福だからムダが許されるとか、文化的な生活をするのは自由なのだと言われた時代は終りとなる。生きて社会生活を営む以上、限りある地球環境資源の活用理念は、厳しく制限される方向へと梶を切るべき時代なのだ。次世代にはそのような教育を施すべきだとは分かっていても、実際は一旦身に着いたものは変えられず、そのことが身近に不合理をもたらしていることすら認識出来ない。高齢者ともなれば、なおさら生活習慣は変えられず、日常で地球環境を考慮することはないに等しい。

 地球全体の経済活動は、従来はフリーに近いが、これからは強い制限を行うべきではないか。経済の中で動く商品の環境破壊税が、その商品価値の中に明記される時代になる。例えば、石炭石油を燃料とした製品と、太陽エネルギーを使用した製品の区別を明確にする時代が来る。国家経済も、その国家のエネルギー依存の構成内容がどうあるかにより、国家間取引関税が設定されるような施策もある。住みにくい地球だが、世界人口の増加と、その生活環境の向上は、他方では、人々の生活の縛りを増やしてゆくのである。

 

歌謡名曲の特徴

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 7月 6日(金)07時13分25秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   老人十名余りの集団で、月に二回のカラオケをやって、もう十六年になる。子供の頃から、童謡、民謡、歌謡に興味があり、その時代々々に唄われた曲を覚え唄ってきた。だから、今でも新曲を年に数曲は覚えて唄っている。

 古い歌謡曲を唄いながら、今になってつくづく思うのは、名曲と言われるものはやはりどこか違っている。その違いは、詞であり曲である。大まかに言えば、名曲はそれまでに唄われてきた曲とは違う新しいものを持っている。その曲が一二年唄われると、それに類する曲が多く出てくる傾向がある。従って、私が記録する持歌謡曲の曲名は、必ずその曲が世に出た年代を付記し、その背景をも評価する。

 事例をあげれば、例えば、近江俊郎「湯の町エレジー」(S23)、美空ひばり「リンゴ追分」(S27)、春日八郎「別れの一本杉」(S30)、島倉千代子「この世の花」(S30)、三橋美智也「リンゴ村から」(S31)、菅原洋一「知りたくないの」(S40)、加山雄三「旅人よ」(S41)、五木ひろし「よこはまたそがれ」(S46)、北島三郎「与作」(S53)、小林幸子「おもいで酒」(S54)など、数百曲ほどある。

 概して言えば、昭和時代の作曲家や歌手は、真に創造性のある芸術家だったと思う。歌謡曲以外のことはよく分らないが、最近の新曲は、主なものは月に二三十曲ほど見ているが、その殆どは新鮮味がなく、似通ったものばかりだ。作家も歌手も、個性や独創性がみられない。曲を初めて聴いても、その曲の次の旋律が何となく分るから、殆ど既存手法の模倣に近い。以前は、名曲が出ると二三年は巷に流れる。今はそのような曲は滅多にない。新陳代謝が激しく、曲の氾濫は、巷のカラオケ屋で唄われることを目ざし、次々に目先を変え、聴者に新曲覚えのような娯楽を提供しているだけだ。いわゆるCD歌手だ。歌の芸術性は著しく落ちている。

 テレビの番組で、歌謡曲の収録が行われるが、曲を老いた歌手が唄い、また男女の声の質を無視した催しはいただけない。たまに、その曲のオリジナル画像を流してくれるのは、有難く価値ある再現だ。もう一度是非聞いてみたい当時の感激が蘇える。若い歌謡愛好者も改めてその昔の芸術性に触れることが出来るのではないか。
 

堀の唄

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月29日(金)06時10分6秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   四年前のこの欄に「水郷」という記事で我が故郷のことを書いた。また十年前には「小板橋」という子供の頃の想いを書いた。今、かつての故郷の景色は、この世に存在しない田園風景となってしまった。それでもこの二十年間、この田舎の二十名余りの同窓の友人と毎年会っている。そして合えば、その名残として、記念冊子を作り続けてきた。

 その冊子の平成19年度版に「堀の唄」という自作の唄を載せた。

      1. 裏手の堀ャ よか堀ョ
         夏は鮒釣り うなぎはウケョ
         夜さりは かけ針 朝あげョ
         コリャ バサラカネ バサラカョ

       (方言の部分を若干解説しておく。よかは良い。ウケは筌と書く。うなぎ筌としてうな
         ぎを捕獲する竹かご。夜さりは夜のこと。バサラカは多量という意味で大漁のこと。)

 戦後は食糧難の時代だったが、子供達は、自然の恵みの中で、食料を調達するという生きがいを持ち、生き生きと活動していた。満々と湛える堀の水は、ひと夏の内に多くの動植物を育んでいた。村にある民家は、部落毎にこれらの堀で囲われ、対岸に家が見えていても、生活圏は別だった。後に、これらの堀が埋め立てられると、そこはもう全く異なった環境に変質した。

 周りの堀は、全て連結していて、流れの波は立たないが、常に緩やかな流れで新鮮な水系だった。まさに川ではない堀なのだ。堀の入江には水ぐるまが設置され、その上に乗った農夫が足踏みで動かし、田に水を供給していた。少し大きい堀は、子供心には、大きな湖だった。そして、その湖は生活に密着した場だったのだ。

 人の情感の豊かさは、その人が日常的に、どれほど自然に密着していたかにより、その深みが異なるのではないか。庭のない家や、草が生えないコンクリート張りでは、労作量は減るが、精神的に失うものは永久に取り戻せない。人間性は、自然との触れ合いにより生まれ、育まれるが、その機会損失になってしまう。私は、理系の勉強をしてきたが、その前に、文学にある人間性の基本の部分があればこそ、人生に厚みがあるのではないかと、今でも思っている。だから、子供は田舎で育てて欲しい。大人になって、社会の厳しさに出会っても動じない能力は、この子供頃の環境によるところが大きい。
 

日本の人口減の問題

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月26日(火)05時46分26秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   世界に普遍的に起こる現象として、社会が高度化すれば、出生率が落ちて人口減が起る。これは基本的に、社会が高度化すれば、人の人生のあり方を選択する自由度が増すからだ。未開発の国では、最低限の生活で、己が頼らなければならない子孫を残すから、民族は途絶えない。幼児の死亡率は高いが、それを越える出生があるのだ。

 日本の人口減は、明らかに経済の高度成長期に裕福に育った世代の結婚や出産が著しく減ってしまったからだ。国の人口と国力の関係は明白だから、成り行きの日本の凋落は明白だ。今の日本にとって、政策は、20年、50年先の社会を見通したものが最も大事な問題だ。安易に他の民族の受け入れで対応し凌ぐことは邪道である。そのしっぺ返しは必ずやってくる。高齢の政治家は、己れの生きている間の問題ではないから真剣に考えて行動を起こす筈もない。

 日本の中年世代の意識やマナーをみても分かると思うが、この年代が持つ子供に対する感覚は、既に子供を想うその重要性の認識に乏しく、人間性も変わってきている。時には考えられないような事件が、子供に対して行われる。子供を守る環境も社会常識も変わった。子供に対する大人の思いやりは、法の有無以前の常識だが、その大人の常識が変わった。子供への犯罪意識が軽視される状態だから、もっと子供への犯罪を重罪にする意識を、法により社会に広めざるを得なくなったのではないか。

 日本で生まれ、日本の義務教育を受けるのが、日本国籍を持つ人の基本だ。だがもはや現状では、日本に帰化をすすめ、また日本への長期滞在を推進しなければ、日本の人口減の弊害を止めることが出来なくなっている。当然のことながら、日本社会は乱れる。日本的な社会の良さも、社会の認識から薄れてゆく。当然のこと、社会がもつイデオロギー自体に変化が起こる。米国の状態を見ていると、日本の将来を暗示しているようだ。中年世代に問う。本当にそれでよいのか。政治家はそれでよいのか。これは間違いなく、中年世代が、自らが作り出した社会の姿なのだ。


 

半人前の日本 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月21日(木)06時19分35秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   国際社会において、日本国の価値は下がる一方である。安倍首相の異次元の外交努力により、それを何とか食い止めようとしているが、それもいずれは終わる。日本の野党は、これがチャンスと思い、世界には関係ないような些細な日本の管理組織の不備を持ち出し、マスコミを煽りたてることにより政権交代を図る。古い体質の概念に閉じこもった日本の政治家の低次元化はますます酷くなる。

 戦後の時代は、世界の先進国の秩序が地球全体を支配した。日本国もその有力な一員に成長した。ところが、二十年ほど前から、世界の未開発な国家の誕生が爆発的に増えた。また中国やロシアのような社会主義、共産主義の国家経済主義は、自由経済界から膨大な利益を獲得して、それまでの先進国が創造した世界秩序を破壊し始めた。それに気付き、被害を回避するために、米国、英国は一世紀前の国家に戻る自国主義へと梶を切った。世界は、先進国が築き上げた秩序を破壊され、一世紀前の状態に戻る。

 日本の六十歳以下の世代は、戦前の国際社会の実態を経験していない。歴史では勉強しても、その実感は殆どないだろう。分り易いように簡単な事実を示せば、当時は国家間の国境の概念はあっても、実体は国家間の実力差で決まった。日本もその先進国の有力な一員だから、朝鮮半島、満州、台湾など多くの地方を占拠し支配した。世界には、今でも英国の領土が、とんでもない場所にあることを見ても解るだろう。

 これからの問題は、当時何も出来なかった国家が、やっと先進国並の力を付けてきたから、その力で既存の国境を事実上破壊し、更に拡大する時期がやってきたと思っても不思議ではない。現に、中国ははっきり行動を開始している。ロシアも同じだ。日本は、米国占領下の憲法に支配されているから、米国に見離されたら、たちまち諸島を奪われる。国際ルールなどの実効性は益々無くなる。米国は、自国さえ安泰であれば、行動を起こさないという世論に傾いている。日本は、目に見えない存亡の危機に直面しているのである。もはや、日本が米国に従属するという関係がとれなくなったのだ。その根源に日本国憲法があることも世間は理解出来ない。韓国を民主主義国家と見做すにも問題が多い。中国大陸に地続きの国家は、いずれ中国専制主義の支配を受ける。

 米国に民主主義の国際社会を発展させ、守ることを期待することも出来なくなる。日本が独自で国家を守らなければならない。そして世界の民主主義を拡大しなければ、日本の社会は崩壊する。残念ながら、その実力は、今の日本には備わっていない。まさに国家として半人前なのだ。国家の装備や政策の実態が貧弱なだけではなく、何よりも問題なのは、国家の意思としての強靭さが、国民の一人ひとりに備わっていない。実に虚弱な国民になってしまった。人のふんどしで相撲をとると言うが、日本はまさに、米国に多額の金を支払い、国を守ってもらうのが一般の常識になってしまった。このような状態では、各政党の国家観の論理的整合性は無きに等しい。まるで土台がないのだ。

 国家観の一つの疑問だが、日本は、何故マスコミに有能な人材が集まらないのだろう。多少でも、日本国家の将来を憂う機関として、マスコミを尊敬する風潮が失せてはどうにもならないではないか。
 

権力暴走の恐れ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月16日(土)05時37分21秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用 編集済
   国家であれば、それを統治する権力があるから、国民はその暴走を恐れる。現実の世界では、権力の横暴が、国家の一部の人の特権になり、長期に横暴が行われる国家は多い。世界の歴史でも、その横暴の程度が桁違いに大きい国家は多くある。虐殺の規模が大きく、その人数が千人を越える膨大な話が、世界ではまるで常識のように語られる。日本の歴史では、封建社会でも大量虐殺の歴史は殆どないに等しい。

 勿論、戦いとなれば殺戮は行われるが、一方的な権力での横暴は、日本の民族には向かない。特に、海外民族と戦った世界大戦でも、日本は独裁政権ではなく、当時の民主主義国家の基準の中で戦った。日本民族には、古くから人情や道徳が根付いているから権力が暴走しても自制が効く。

 中国の話だが、先方の常識かもしれないが、日本軍が何万、何十万の数の虐殺を行ったという話を、然るべき立場の人ですら違和感なく語る。馬鹿々々しいと思う。日本人には常識外れだから、話を交わす気にもなれない。この違いは色々な場面でも問題になる。

 最近の復刻版で陳登元の著「敗走千里」という本が出ている。この著書は、南京事件の起こった1938年に書かれたもので、当時の支那軍の組織や行動が分かる。兵隊であれば殺戮は虐殺とは言えないが、それでも支那軍には、後退する兵を後方から狙撃する督戦隊がいて、自軍の撤退する兵士を射殺する。言わば虐殺組織があったのだ。基本的に戦闘のあり方の理念が日本とは異なるのだ。だから、歴史の見方も異なる。

 日本国家の中でみれば、一言でいえば、もう少し日本人の政治権力を信頼してもいいのではないかと思う。自分や自分の仲間を信じられず臆病なのは、あまりにも情けないではないか。臆病になると、政治は進まないのだ。特に、既存のものを破棄すること、特に権限や利権に関わる規制や法律は、一旦作られると、どこかに利得のある人は必ずいるから反対が起こる。しかし、政治は、多少非情であっても廃棄する勇断が出来なければ進歩はなく、無駄の多い非効率な社会となる。更に、悪いことには、日本社会の中に不信感を煽る政治家が出てくる余地を生じる。そうではなく、日本人はもっと日本の辿った歴史を信頼し、権力に依存する姿勢を持った方がよいのではないか。その点では、米国の方が進んでいる。

 個人の自由の権利を大事にするあまり、公共にとって個人の犠牲的精神が軽視される風潮がある。世論は、政治権力に害されることばかりを強調するが、政治は、むしろそれを乗り越えた個人の社会義務の立場を指導すべきではないか。それは、政治の理念として、自信ある日本国家の将来性をにらんでいなければならないのだ。そのような大志を持つ力のある政治家はいなくなったのか。
 

立場を考えろよ

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月11日(月)05時28分0秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   「どうなっているのだ。立場を考えろよ」と言いたくなることが増えた。時代が変われば、人も変わることは分かっっていても、世界を指導する立場の人までが激変するとは想像出来なかった。

 世界は、いわゆる後進国と言われた国々の台頭で、これらの国々が持ち込む交渉や取引が、著しく信頼を欠き、規律崩壊状態になってきた。かつての民間のヤクザの世界だ。特に、共産圏の国家の増大は、世界に嘘の習性を蔓延させ、真実の尊重や約束や信頼という貴重な国際社会常識が滅びてゆく。

 世界で最も公正で紳士的道徳が優れていたのは、米国の白人社会だった。個人を尊重するマナーは、日本の若人に新たな手本として、あこがれをもって見られた時代もあった。だが、当時でも黒人の人種の問題は悩みの種であり、我々黄色人種にとっても、表面上は良くても、内部までは公正なものではなかった。今は、それも更に悪化し、米国社会は大量の移民族の無制限な受け入れにより、白人社会常識の維持は不可能になっている。特に、中国、韓国などの異質民族の増大で、社会への影響は拡大している。だから、トランプ現象が起こり、一挙に政策が激変しなければならない事態となったのだ。

 民族には、その生まれた時から、その社会の教育があり、これで、生涯に及び変えることの出来ない習性を持つことになる。幾ら自分で否定しても、その本質はなかなか変えられるものではない。だから、国家は移民には慎重で無ければならない。移民と人道主義の問題が議論されることがある。だが、これは次元の異なる問題と認識しないと社会は崩壊する。米国だけの問題ではなく、これから更に大きく影響を受けることになるのはEUだろう。EUは移民政策を誤った。EUからの英国の離脱は、国家としてあるべき姿の深い認識と、強い意思の表れでもある。米国や英国は既にその事に気付いている。日本は、気付いているのではなく、臆病なことが結果的に悪化の進行を遅らせているに過ぎないのだろう。幼児の教育とその義務の原点もそこにある。

 中国と北朝鮮、韓国の関係は、日本や米国の社会常識とは異なっている。その基本は、社会道徳の違いや、歴史認識の違いだろう。この民族と日本は同じにはなれないから、政治はその本質を正しく考慮した上での施策を基本にすべきだ。子供染みた嘘と騙し合いで力を得て、それに満足出来る価値観は、日本の常識に合わない。今の世代には理解されるかどうかは分からないが、「陰で行う善意」の喜びが無くなってしまうのは残念なことだ。庶民の間の問題であればまだしも、それが、国家の指導者が行う見え見えの行動は、本当に「立場を考えろよ」と言いたくなる。個人を低俗な言葉で非難するような国家元首は、その国が、一言で言えば付き合えない国家社会であることを示している。


 

政治への関心はどうか 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 6月 5日(火)06時00分52秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   国政の選挙があると、若年層の投票率が低いのは何故なのかと思う。これに対して、老年層は、相対的に投票率は高くなる。この理由は分かる。戦後の教育で、選挙に行かないことは罪悪と教えられたから、若干言い過ぎかもしれないが、政治の内容を十分に理解出来なくても、年寄りは素直に決りに従って投票所に足を運ぶ。

 色々な世間の動きを見ていると、実は、若者は思ったよりもかなり多くの情報を持ち、その意見も実態の政治を冷静に見ている。むしろ、テレビなどのマスコミの意見を、口移しに言いながら信じているのは、老年の世代のようだ。スマホの普及は、社会の多くの情報を、多方面から取り入れるから、実は、若者は老人よりむしろ客観性があるのではないか。

 戦後の教育は、民主主義を守れば戦争もない平和になると教えた。また、民主主義であれば、政治家の横暴を止めることが出来、特にマスコミは、権力を批判する役目なのだと教えた。日本の憲法は、その象徴ともいうべきものとした。だが実は、憲法は日本国家を二度と大国にしないための米国の幼稚な策略だった。一国家としての体制を、矛盾だらけの法で縛ることだった。恐らく、米国は、EUのドイツの好戦的な歴史をも見ていたのだろう。

 そのような国際情勢の中での、憲法や選挙の重要性やマスコミの役割の考え方なので、戦後の混乱期では機能したが、今の国際情勢には合わなくなり、正当な見方が出来なくなってしまった。今は、米国の日本支配も終わりにきた。世界は、民主主義国家の支配から、専制主義国家の支配へと移る。それは、長期政権の方が、世界に早い対応が出来るからだ。民主主義国家の政治的統率力の弱体は、国家の最大の欠陥である。その中でも、曲りなりにも国際秩序を主張する日本の安倍政権は、重要な役割を果たしている。

 日本のマスコミの問題は、国際的理念や知識の重要性をわきまえず、相変わらず戦後の理念を引きずった社会主義支配の経営状態だ。その状況に最も影響されるのは、デジタル化の波に乗れないテレビ偏重の老人世代なのだ。だから世間は、世論調査でも実態を把握出来ず、いわゆる世間の浮動票的意向が増大している。その中には、若者の冷ややかな意見は十分に捉えられていないようだ。世論調査の実態が偏らないためには、世代別の世論を表示して欲しい。だがその調査の公正性は困難だろう。

 世論は、マスコミの意向となり、マスコミが世論をつくっている。政治家とマスコミの繋がりは大きいから、政治の課題もマスコミ指向となり、政治課題の重要性やニュースの偏重が起こる。マスコミの知識の偏向も問題であり、低下しているようだ。課題を選ぶ基本的な重要性の認識が弱いのではないか。民主主義は選挙とマスコミにより維持されているが、選挙があるから民主主義だとは言えない国が沢山ある。それは、選挙とマスコミ操作を政策にしてしまう政治家の権力獲得の策略が歪曲しているからだ。特に政権に責任がないと考える野党の行動は目に余る。全てが政権打倒の選挙対策を指向する悪癖に見えてくる。政治をどのように考え、政治責任をどう考えるのか。政治に対する理解水準が低いのだろうか。
 

社会保障と自己負担 

 投稿者:片山正昭  投稿日:2018年 5月24日(木)06時20分17秒 softbank219183134106.bbtec.net
返信・引用
   前にもどこかで触れたような気がするが、再度改めて、社会保障と個人の支払いについて述べてみたい。今、日本は、世界の中でも高度な社会保障制度を持っている国である。ところが、この維持負担が崩壊する事態に迫られている。これは、どこに問題があるのだろうか。

 一言でいえば、個人の利便さと利己的な欲の横行である。本当に社会的に保護されなければならない人達への制度が、そうではない悪質な我儘のために、壊されている状態にまでなってきたのである。例えば、救急車の活用は、本当に救急を要しているのか。病院の受付依頼とタクシーの代用になっていないか。病院側も救急の概念が共有されなくなってしまっているではないか。病院は薬の廉価販売のために利用されていないか。生活保護の適正は追跡され、補助されなければならない必然性は精査されているのか。その保護の水準が甘くないか。公の業務を、私的に強要していないか。

 政治家は、社会の理想的な公共性の在り方を指導するより、住民の我儘を如何に汲み取るかの方が得票に繋がると思い込んでいる。目先の個人利益ばかりが横行し、社会保障への指導すべき役割が放置されるから、全体のシステムの崩壊が起こってくる。マスコミの態度も、全体の公共性の維持の認識や理念より、個別の補助問題の話題性ばかりを重視するようになり、社会性の本質認識が低下している。

 消費税のところでも述べたが、何事も、もう少し受益者負担の原則を厳しくすべきではないか。どんなに金持ちでも、その金を使わなければ、生活の喜びを享受出来ないから、特に高額商品や贅沢品には、消費税を強化することで十分対応出来る。医療費の公的補助も同様な面があり、個人負担を軽減すれば自制は効かなくなる。一割の自費負担程度では、皆が押し掛けるのは当然だ。自分で健康管理を行い、公共に迷惑をかけないという自制認識が出来ない。病院通いで、各戸には腐るほどの薬剤が蓄えられているのだ。そしてそれは、いずれ捨てられる。毎年、富山の細やかな置き薬の小箱の交換で、健康を維持していた時代が懐かしい。

 日本のように、社会的に貧富の格差が少ない社会での社会保障は、本来、推進に有利な筈なのだ。更に、その背景には、道義としての社会性が大きな役割を持っていた筈だ。ところが、少し社会がいびつになってきた。必死で資産を蓄えた世代が死に絶え、その資産の不適正な移譲は、社会から隔離した異常な世代をも生み出した。社会と隔離された人が、どこの住宅でも見られるようになった。社会的責任の道義は、どうでもよいという人々だ。所得や資産が不明瞭であれば、社会保障制度はなり立たない。

 社会保障の先行きがあやしいとなれば、受益者負担を強化するより他はないのではないか。今の、老人への有利な施策や、所得に関連した支給基準も、もう一度社会保障の原点から裁量し直す必要がある。高額医療や医療支給の限度額にも厳しさを必要とする。要は、本当に補助の認識を明確にしなければならないものを、厳格に査定するという基本に戻るべきではないか。
 

/10